感謝は人の背後の神に
大阪の人は、小さな事にでもすぐ“おおきに”と言って、感謝の言葉を口に出す。これは聞いていて本当に気持ちの良いものである。私も中小企業を経営していた頃、毎月1回は給料を渡すときに“おおきに”と言われるのは、悪い気はしなかった。しかし中には、こちらが渡す先に“おおきに”と言って手を出す人や、なぜか渡すときになると関係ない話題を持ち出して、“おおきに”と言わずに給与を受け取る人もいた。当社のような中小企業では、いろんな人がおり、教養のある人もない人も、マナーをわきまえた人も、そうでない人もいたので驚くことはないが、“おおきに”にもマナーが要るなあと思ったことであった。
お祈りをするときは、“おおきに”とは言いにくいので、“感謝します”と言うけれど、この時でも注意しないとマナーを逸(いっ)するどころか、神様に届かない、受け入れられないような祈りになってしまう。それは、毎日同じことをお祈りする場合などに注意すべきことであり、マンネリ化して心が伴わないときである。感謝でも、とりなしでも、願いでも、本当にその人に対して愛を持ってするなら(例えば、自分の子どもや妻に対してのように)いくら毎日同じことを祈るにしても、マンネリ化することはないと思う。
神様はいろんな恵みを、人を通じて与えたり、もたらしたりする。恵みは人を通じて去来するので、与える、受けるの双方が同居していることが多い。感謝やとりなしや願いは、それ故バラバラにあるのでなく、同時にその人の中を去来していることが多い。人間自身を分割することができないので、お祈りするときに気を付けなければいけないと思った。
イエスは、ラザロを通じて、神の栄光を死からの解放をもって表すことができたことを、神に感謝した。私たちもただ祈りの時間においてのみでなく、日常の感謝の念を表すときでも、神様は常に人を通じて願いを聞いてくださるということを覚え、人の背後の神に対して、感謝する心を忘れてはならない。
「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします」(ヨハネ11:41)
◇
米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。