低くなること
使徒パウロは、自分に臨んだ主の恵みがあまりにも大きいことを知っていたので、どんな場合においても満足する人生を歩むことができました。彼は、イエス様に出会ってから、自分の素晴らしい家柄、ローマ市民権、高学歴、サン・ヘドリン(Sanhedrin、公会)において認められた地位にいることを決して前面に押し出しませんでした。かえって低くなる姿を通して神様にもっと栄光を帰しました。「低くなること」、これが使徒パウロの力の秘訣であり、喜びの秘訣でした。
乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(ピリピ4:11)
使徒パウロは、福音を伝えるために小アジアとヨーロッパを旅し、行く先々で教会を建てました。それで、時には財政的な苦しみを感じたりもしました。それでも彼は、決してあちらこちらに苦しいとアピールしたり、助けを求めたりしませんでした。かえって、主の中でいつも満足する生活を送りました。これは、自分の受けた苦しみが、キリストの力を宿らせる通路となることを知っていたからです。満ち足りた人生を生きる秘訣は、主の中で感謝し、賛美することにあります。どんな場合にも恨みつらみを並べ立てず、現在私たちに与えられている恵みに感謝できなくてはなりません。
オリュン教会を担任しているキム・ウンホ先生は、教会を開拓しながら次のような三つの原則を打ち立てたそうです。
- 以前仕えていた教会から聖徒を連れてこない。
- 兄弟や親戚で教会を満たさない。
- 物質的に苦しいとき、他人に助けを求めない。
キム・ウンホ先生は、平信徒1人、学生2人とともに賃貸保証金1200万ウォンの融資を受けて教会を開拓しました。早天祈祷会は奥さんと2人きりでささげることがほとんどで、涙なくしては過ごせない日々が続いたそうです。しかし、そうであればあるほど、キム・ウンホ先生はひれ伏して祈りに努め、常に感謝を失うまいと頑張ったそうです。決して諦めず、喜びをもって仕える方法を学ぼうと努力されました。イエス様は、ただ主お一人ゆえに喜び、低くなる姿を失わなかったキム・ウンホ先生の牧会と人生を導いてくださいました。結果、オリュン教会は20年で1万人が集う教会へと成長しました。イエス・キリストが下さった喜びの力がそのようにさせたのです。喜ぶことのできない状況において喜びを維持することは、主が働かれるときにのみ可能です。キム・ウンホ先生は、お腹を空かせる日もたくさんあったそうですが、それらの苦しみの日々を送りながら学んだのは、ただ感謝し、喜ぶことだったそうです。低くなればなるほど、より大きく臨む主の喜びが、キム・ウンホ先生の人生を勝利へと導いたのです。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです(Ⅰテモテ6:6-8)
1940年代から神学ベストセラーを出しているデビッド・ソパー(David Soper)は、著書『神様は避けることのできない方(God Is Inescapable)』において次のように言っています。
「根本的に、牢獄と修道院の差は、不平と感謝の差です。これは確かな事実です。牢獄に収監されている囚人たちは、目を覚ましている限り不満を述べます。その反面、自発的に自我を閉じ込めておいた聖者たちは、目を覚ますと神様に感謝をささげます。囚人たちが聖者になるとき、牢獄が修道院へと変わります。聖者たちが感謝を放棄するとき、修道院が牢獄となります」
どうして、自由がないという同じ状況の下で、正反対の反応を示すのでしょうか。ソパーは、「不満を述べるか、感謝するか」ということは、状況や環境の問題ではなく、心の問題だということを言っているのです。すなわち、現実をどのように受け入れるかという差です。
牢獄にいる人々は、生活の自由を奪われ、権利を剥奪された悔しさだけを考えます。それで心に不平不満が満ち溢れ、他人を恨み、憎むようになるのです。しかし、修道院にいる聖職者たちは、たとえ自由がなくても、人生そのものが神様の「絶対恩寵」による「絶対恩恵」であることを悟り、「絶対感謝」の人生を歩んでいきます。自分が存在するということ自体が、値なしに与えられたものであるから、感謝するしかないということです。これこそが、キリスト者が感謝できる理由です。
聖書注解者として有名なマシュー・ヘンリー(Matthew Henry)は、「感謝は良いことである。しかし、感謝しながら生きる方がもっと良い」と言いました。ある日、彼は御言葉を伝えてから帰る途中で強盗に遭って、持ち物をみんな奪われてしまったことがありました。彼はその時のことについて、次のように告白しました。
「第一に、私が以前、強盗に遭ったことがないというのが感謝である。第二に、強盗が私の財布は持っていったが、私の命を奪わなかったのが感謝である。第三に、彼らは私が持っていた全てを持っていったが、それがそれほど多くなかったから感謝である。第四に、私が強盗でなく、強盗に遭った人であるということが感謝である」
このような告白こそ、絶対感謝の人生を歩む人だけができることです。いくら持てるものが多くとも、感謝する心がなく、常に不平不満の多い人は不幸な人です。キリスト者は、持っているものによって幸せを感じたり、喜んだりする人ではありません。誰かがもっと多く持っているのを見ると劣等感を感じ、自分が多く持っているとうれしいと話す人は、まことのキリスト者ではありません。このような人は、他の誰かが自分よりも多く持っているのを見ると、また挫折することになります。しかし、神様の人が持つ喜びと感謝は、そんなものではありません。どのような場合や状況においても奪われないのが、まことの喜びです。そういう意味で、状況に関係なく満足しながら感謝できる人が、まことに祝福されたキリスト者です。このような人が喜びの霊性をもって生きていく神様の人です。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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李永勲(イ・ヨンフン)
4代続くキリスト教家庭に生まれ、幼い頃から主日学校に通いながらヨイド純福音教会と深い関わりを持ってきた。延世大学および韓世大学、連合神学大学院を卒業し、アメリカのウェストミンスター神学大学院修士課程を修了した後、アメリカのテンプル大学において宗教哲学修士(M.A.)と宗教哲学博士学位(Ph.D)を取得した。アメリカのワシントン純福音第一教会、日本のフルゴスペル東京教会、アメリカのLAナソン純福音教会の担任を務め、国際神学研究院院長、韓世大学教授、アメリカのベテスダ大学総長、ヨイド純福音教会教務担当副牧師などを歴任し、対外的には韓国キリスト教総連合会(CCK)共同会長と韓国キリスト教教会協議会(NCCK)会長などを歴任した。
現在、ヨイド純福音教会の2代目担任牧師として、韓国キリスト教総連合会(CCK)代表会長、キリスト教大韓アッセンブリーズ・オブ・ゴッド総会長、社団法人グッド・ピープル理事長などの活動を行っている。チョー・ヨンギ牧師の牧会と霊性を継承、発展させながら、ペンテコステ聖霊運動と御言葉充満の調和、仕えることと分かち合うことの実践、世界宣教および教会連合運動などに力を注いでいる。
主な著書としては『The Holy Spirit Movement in Korea』『霊的成長の道』『小さきイエスの霊性1・2』『感謝の奇蹟』『信仰の奇蹟』(以上、全て韓国語版)、韓英対訳『十字架の恵み』など多数。訳書としては『ペンサコーラ、奇蹟の現場‐ブラウンズビル教会』『世界ペンテコステ・ホーリネス運動の歴史』などがある。