究極の経験
自分のすることを全て相手が分かってくれるはずがない。日本人特有の腹芸とか阿吽(あうん)の呼吸とかは、ある道を探究する者同士では通用しても、一般社会では通用しにくい。分かっているだろうとか、分かってくれるだろうという一種の甘えは捨てなければならない。理解し合うための話し合い、ある程度時間のかかる話し合いが欠かせない。
こういった時間のかかる作業を面倒がったり、短気を起こしたり、やけを起こしたりして、一方的に結果的には勝手な行動を起こすと、後で必ず双方の関係が何となくギクシャクしてきたり、冷たくなってきたりする。そして、嫌味や愚痴を言ったり、言い訳したり、怒ったり、相手のせいにしたりと、次々人間関係を引き裂く悪い行為が続く。
こういう悪い人間関係の連鎖を希望しないのなら、前に述べたように、理解し合う話し合い、多少とも時間のかかる話し合いをする他ない。双方から不協和音が出るということは、双方に相手のすることに不満があるからに他ならない。予想できない不満は仕方がないが、前もって理解し合える不満はできるだけ前もって解消しておいた方が良いに決まっている。
自分自身、家族の一人一人、会社員の一人一人と自分をも含めて多くの人と接してきたが、責任を持って行動し、後で人のせいにしたり、愚痴を言ったりしない人、しっかりと自立している人はいいが、そうでない人は、何度も同じことを繰り返しているように思える。気まずくなった直後は、“ああ、これでこの人も変わったなあ”と思うこともあるが、長続きしない。
若い時なら“苦労は買ってでもすべし”ということわざは、真に正しいと思う。精神的な自立は、これによってしか得られない。しかし若くても年老いても、自立は得られると思う。私たちは、いくら死ぬほどの経験をしても、悟りがなければ無意味である。悟りこそが究極の経験であり、究極的には年齢に関係ない。
「私に悟りを授けてください。そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう」(詩篇119:125)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。