前回に続きだが、歴史的事実を調べないで、そのような認識を丸呑みして日本宣教学は構築できるのだろうか。欧米は正しく、日本が100パーセント悪かったという、定説になっている歴史認識では、中学の社会の教科書はそれでも仕方がないとして、日本宣教学の成立のためには、もう少し突っ込んだ検討が必要なのではないか。
そうして、もしかしたら、ここにこそ日本伝道の不振の原因の一つが潜んでいるのではないだろうか。20世紀の日本という国が取った行動と態度について、自主的な、自前の分析と判断などしようとしない。他国の合意事項をソックリ真理として受け入れてそれでよしとする。多少は無理があるような気がしていても、そこをつつき出すと面倒なことになるので、それはやらない。
それでは自分の国と社会に対して不誠実な態度になるのではないか。自国の歴史に対するそういう態度、またキリスト教の歴史的な罪状についての不十分な把握などが現状ではないか。
これでは宣教の相手である日本について十分に知らず、自分の宣教の内容であるキリスト教の歴史の把握も不十分では、孫子の兵法ではないが、百戦しても一勝できないということになるのではないか。
戦責問題には一般にタブーがある。そもそも太平洋戦争の原因の中にキリスト教にも責任があるのではないか、そういう可能性については誰も論じないし、論じてはならないとされているのである。
キリスト教という宗教は善であり、これに対しては、批判は一切してはならぬ、ということ、これがタブーである。このタブーはクリスチャンに対しても、また非クリスチャンに対しても効いており、いわば強烈なブレーキがかかっている。
確かに断片的な発言はある。歴史上にキリスト教が犯してきた罪状のリストのようなものも無いわけではない。またそれらが教派間の対立や、他派の評価のための道具として使われることもある。しかしこれらを概観し、集大成したものは無いし、いわんやそれを使用してキリスト教学を再構成しようとする人などいないように思う。
だからキリスト教思想の中の好戦的な態度をそのルーツにまで踏み込んで検証する人もいない。もしかしたら、キリスト教思想こそが太平洋戦争の真犯人なのかもしれないなどとは、誰も畏れ多くて考えないのである。
だいたいキリスト教思想は、日本の知識人たちにとっては「聖域」である。 日本の非クリスチャン学者で、これに立ち入って批判し分析しようという人などいない。
理由は、キリスト教思想は規模が大きく、教会史も含めてその把握は一生涯かかっても困難だ、というところにある。ヘブル語、ギリシャ語の知識が原典の把握にとって必要であり、中世の教会史と思想史の把握のためにはラテン語の基礎的知識が必要となる。また膨大な現代のキリスト教資料を読むためには、せめて英語をかなりの速度で読む実力も必要である。
そういうわけで日本社会は、キリスト教批判ということに対して節度をもって遠慮してくれている。これは当然であろう。下手な発言をして笑われてはいけない、と考えるのは自然な態度であろう。
石原慎太郎・盛田昭夫の『「NO」と言える日本』とか、また扶桑社『国民の歴史』、渡部昇一『昭和史』などには、西欧の体質に対するかなりの深い突っ込みがあるが、ひとたびキリスト教思想との関連ということになると、誰もその先に進まず、あえてこれを批判し分析しようとはしない。
ということは、つまり戦争責任についてはキリスト教には批判のタマは飛んでこないということである。それで日本のクリスチャンは安心してアグラをかいている。
そうするとどうなるか。もし仮にキリスト教信仰に問題が内在するとしても、そちらの方は棚上げされたままである。そうして日本の体質のみが論じられ、日本という国はヒドい国だと批判して事終われりということになる。これはとんでもないことで、それでは日本宣教は前進しない。
安住してアグラをかいていると、自分たちのキリスト教思想の問題点に関して無知なままに過ごし、それでよしとすることになる。
ここに述べたように、キリスト教の体質批判は内部からでないとできないのは当然であり、それは一にかかってクリスチャンの側の責任である。ところがキリスト教側からの自己批判は皆無で、怠慢なままになっているのが現状である。
日本のクリスチャンは、過去の大戦の分析という点で責任を回避している。もちろん西欧のクリスチャンもそうで、彼らにも自己批判の責任がある。しかし彼らにはそれが見えていない。彼らは勝利者である、自分たちに根本的な問題があるなどとは思っていない。たとえ問題はあっても、部分的な手直しで解決すると思っているのである。
日本のキリスト教会はアジアの一部であり、その視点からここ百数十年のアジア史とキリスト教の関わりを見られる立場にある。であるから、そこにある問題をよく見ることができるはずである。ところがあえて見ようとせず安全地帯に閉じこもっている。非生産的な状況を作り出し、そこに安住している。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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後藤牧人(ごとう・まきと)
1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。