律法と福音の関係を絵のように理解するために、先週までは「契約の箱と蓋」の構造に関して詳しく述べてきました。今回はそれを補完する意味で、「モーセとヨシュア」に注目してみたいと思います。いずれもキリストが生まれるよりもはるかに前の人物たちですが、この二人の大指導者の役割を通しても、「律法と福音」の関係性を垣間見ることができます。少し長いですが、後ろのほうに重要なテーマを書いたつもりですので、最後まで読んでいただけると幸いです。
エジプトの奴隷(罪の奴隷)
私は何度も聖書を読むうちに、出エジプトの物語は、実に今日の私たちが救われる過程とオーバーラップするものがあると感じるようになりました。おそらく昔から多くの方々が同様の事に気付かれていると思いますが、私なりの言葉で整理してみたいと思います。
まずは当時のイスラエル民族がエジプトという大国の奴隷状態であったことに関してですが、これは救われる前の私たちの状態を表しています。私たちも神様を信じ、キリストの福音にあずかる前はみな罪の奴隷の状態だったのです(ヨハネ8:33)。キリストの宣告を引用してみます。
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネ8:34)
どうして罪を行っている者は罪の奴隷という論理が成り立つのでしょうか?それには「奴隷」の定義をしてみる必要があります。奴隷というのは、本人の意に反して何かの行動なり労働なりを強要される存在のことです。そして罪を犯している者たちというのは、自分がしたくて罪を犯しているのではないのです。誰だってできるならば、嘘(うそ)をつきたくないし他人を傷つけたくないし、罪など犯さずに生きたいものなのです。しかし、人類は非常に残念なことに、したいと願う「善」を行うことができずに、したくない罪を犯してしまっているのです(ローマ7:15)。だからこそ、キリストは「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と宣告されたのです。
過越(キリストの血による贖い)
イスラエル民族が出エジプトした時に、1歳の雄の子羊を屠(ほふ)り、その血を門に塗ることによって、滅びから救われたことは何度も書いて来ました。この事は罪の奴隷であった私たちが、キリストの十字架の犠牲と血によって、贖われる(救われる)ことの型(タイプ)なのです(Ⅰペテロ1:18)。
紅海(バプテスマ)
エジプトはイスラエルを解放して自由にした後にも執拗にイスラエルに追いすがって来ました。この事は罪の奴隷状態から救われたクリスチャンにも、引き続き罪の誘惑が追いすがって来ることを連想させます。そのため、イスラエル民族は、その自由を完全なものとしエジプトときっぱりと決別するために、神様によって二つに裂かれた紅海の中を渡るという奇跡を体験します。
そして、追ってきたエジプトの兵士はみな水にのみこまれて死んでしまいます。これも救われたクリスチャンがバプテスマ(洗礼)を受けることによって、古い自分に死んで、新しい自分に生きるということの型なのです(ローマ6:2~)。イスラエル民族がモーセに率いられて海を通ったことが、一種のバプテスマ(洗礼)であったことは第一コリントに明記されています。
私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、(Ⅰコリント10:1~2)
荒野の旅路(信仰生活)
さてエジプトを脱し、紅海を渡ることによって完全に自由の身となったイスラエルの民は、万々歳だったかというと、必ずしもそうではありませんでした。彼らは乳と蜜の流れる約束の地に着くまで、長らく荒野を旅しなくてはならなかったのです。荒野での行程は決して楽なものではなく、何度も「再び奴隷になってもいいから、エジプトに帰りたい」と愚痴ったほどでした。
この事も今日のクリスチャンの歩みと通底しています。つまり救われた後は楽チンに人生を楽しめば良いのではなく、荒野のような険しい道を歩み得るということです。荒野は暑く危険で困難であり何一つ快適でないところですが、私たちの歩みの中でも、さまざまな苦難や困難に遭います。私の場合はそれらの一つが、長く苦しい皮膚の病でした。ただし、それらの試練や苦難は何の意味もない不条理ではなく、信仰を働かせるならば成長することのできる機会となるのです。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ1:2~4)
天からのマナ(神様の御言葉)
そのような荒野の中においても、神様はイスラエルの民に毎日毎日、天から「マナ」と呼ばれる食べ物を与えてくださいました(出エジプト16:4)。今日のクリスチャンには、毎日天から食べ物が与えられるということはありませんが、私たちは聖書を開けば毎日でも神の言葉・キリストの言葉を授かることができます。それは肉の食物である「マナ」を与えられることよりも優っています。なぜなら肉の食物をいくら食べても、結局いつかは死にますが、キリストの言葉は永遠の命に至る食物だからです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。・・・(ヨハネ6:49~51)
約束の地に入れないモーセ(律法の役割と限界)
前置きが長くなりましたが、実はここからが本日のメーンテーマです。出エジプトしたイスラエル民族の旅路の最終目的地は「乳と蜜の流れる地」と呼ばれた約束の地カナン(後のイスラエル)でした。ところが、これまで多くの苦労を重ねてきた出エジプトの一番の功労者であるモーセが、その地を目前にして神様から意地悪ともとれるような宣告をされてしまうのです。
「あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へ入って行くことはできない」(申命記32:52)
何と神様はその地を見せるだけ見せて、あと少し前に進めば足を踏み入れることができるというのに、その事をモーセに禁じ、かえって死の宣告をするのです。その直接的な理由というのは、モーセが神様に対して不信の罪を犯したためだとすぐ前の節に書かれています(申命記32:51)。また少し行間を読むならば、既に高齢になっていたモーセに対して、神様が「あなたの役割はここまでで十分です。あとは後継者に任せてゆっくり休みなさい」としたようにも読み取れます。しかし、それだけではどうにも腑に落ちません。
モーセとヨシュア(律法と福音)
これまで律法と福音について書いて来ましたが、モーセは律法を代表しているということができます(マタイ23:2)。モーセこそが神様から直接「十戒の書かれた石板」を受け取り、「律法の書」をも書いた人だからです。そうだとすると、律法(戒め)を代表しているモーセが約束の地に入れなかったというのは、私たちに律法の性格と限界を明確に見せているのではないでしょうか。つまり、約束の地というのは今日のクリスチャンにとっては、天の御国のことですから、律法によっては決して救われて天国へ行くことはできないということです。
モーセは約束の地を「はるかにながめる」ところまで民を導いて来ましたが、約束の地へは入れませんでした。律法も養育係として私たちをキリストのもとへ導くことまではできますが(ガラテヤ3:24)、律法によって救いを得させ、天の御国まで私たちを導くことはできないのです。あくまでも、それはイエス・キリストの福音によるのです。
モーセがイスラエルの民を約束の地へと導き入れることができず、その後継者であったヨシュアがそれを成したという点も非常に興味深いものがあります。実は人類を天の御国へと導いて下さるイエス・キリストとヨシュアというのは同じ名前なのです。ヨシュアというのがヘブル語であり、それをギリシャ語にすると、イエースース(日本語では「イエス」)となり、いずれも「ヤハウェ(唯一神)は救い」という意味になるのです。
もしも私たちが何一つ罪のない存在であったなら、「律法」という正しい神の言葉を守ることによって、私たちは救われたことでしょう。しかし、モーセがたった一度の不信の罪のために約束の地に入れなかったように、律法(戒め)を守ることによって神様に受け入れられることは不可能なのです。そんな罪ある私たちを約束の地(天の御国)へ導くために、神様は無償(恵み)でイエス・キリストによる福音を人類に与えてくださったのです。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:17)
【まとめ】
- 出エジプトの過程の一つ一つは、今日の私たちが救われる過程の型(タイプ)である。
- イスラエル民族がエジプトの奴隷だったことは、救われる前の私たちが罪の奴隷であったことを、過越の事件はキリストの血による贖いを、紅海を通ったことは信者が受けるバプテスマ(洗礼)を、荒野の旅路はクリスチャンの信仰生活の困難さを、天からのマナは神様の御言葉が与えられることを、それぞれ示した型(タイプ)である。
- モーセが約束の地を目前にそこに入れなかったことは律法の役割と限界を、ヨシュアが民を約束の地へ導いたことはイエス・キリストの福音こそが私たちを天の御国へ導くことを暗示している。
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