先週は契約の箱に蓋(ふた)の覆いがあることが恵みであり、それが「律法と福音」の関係を絵のように見せていると書きましたが、今回はその蓋を見つめる者たちに関して詳しく見ていきたいと思います。最初に断っておきますと、今週の内容の核心部分は以前に私の父に教えてもらった内容をもとに書かせていただいています。
この蓋には二体の翼を生やした黄金のケルビム像が乗っかっていました。このケルビムとは神の近くにいる天使たちのことです。ちなみにケルビムとは複数形であり、単数形の場合はケルブと言います。とにかく、天使の像がこの箱の上に載っていました。そしてこの二体のケルビムは何をしているのかというと、蓋の中心をじっと見つめていたのです。蓋とケルビムを作るときの指示が聖書に記録されているので、確認しておきましょう。
また、純金の『贖(あがな)いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。・・・ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。(出エジプト25:17~21)
先週はこの蓋が「マーシー・シート(恵みの座)」と呼ばれたと書きましたが、ここでは「贖いのふた」と表記されています。箱の中に収められる「わたしが与えるさとし」とは、「石版に書かれた十戒」のことです。モーセが最初の石板を割った後、神様がモーセに命じて、新たな石板を作らせたのです。その十戒を「贖いのふた(マーシー・シート)」と呼ばれる蓋が覆い、その蓋を天使たちが見ているというのが、契約の箱の構造となります。
ではこの天使たちの役割とは何でしょうか?
ある人たちは天使を慈愛に満ちた優しい存在だと感覚的に思っているかもしれません。アニメなどでは、優しいキャラクターに対して「天使のようだ」などと表現したりもします。しかし、聖書に出てくる天使とは基本的に「神の僕(しもべ)」としての立場にあります。彼らには何か自由に判断したり、人に情(なさけ)をかけたりする権限はありません。ただ純粋に神の言葉に100パーセント従う存在です。ですから神の言葉に従わない者がいれば、彼らは法の執行者としての怖い顔を出してきます。普段は神を敬う人を助ける存在ですが、時に何万もの人に恐ろしい神罰を与えることもあるのです。一つだけ例を見てみましょう。
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。・・・「わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです」(創世記19:1~13)
この箇所の二人の御使い(天使)は、ソドムとゴモラの町があまりにも悪と罪に満ちていたために、町ごと滅ぼすためにやってきました。そして同時に彼らは義人ロトと、その家族を守るためにも来たのです。
もしも私たちが罪を犯さないのであれば、天使たちを恐れる必要はありません。例えば隣にパトカーが近寄ってくるとき、自分の車に整備不良があったり、定員オーバーしていたりすると、捕まらないかとビクビクしてしまいます。しかし何の問題もなく、シートベルトもしっかりと締めており、速度を出し過ぎていなければ、何台パトカーが近くにいても気にする必要はありません。彼らは市民を守ってくれる存在なのですから、むしろ心強く感じることでしょう。同様に、私たちが罪を犯さないのであれば、天使を恐れる必要は全くありません。しかし問題は、以前に確認したように私たちがみな罪人だということです。
さて天使は神の法の執行者であり、時に神に代わって人類に神罰を与える存在なのですが、彼らがその神罰を下さない場合があります。数週前にも触れたイスラエルの民がエジプトを脱出するときの様子をもう一度確認しましょう。
当時エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を救うべく、神はモーセを遣わしました。モーセによって神がイスラエルと共にいるという不思議なしるしを何度も見たエジプトの王パロは、イスラエルを解放することを約束します。ところがパロは何度も何度もその約束を破りました。その結果、神は天使を遣わしエジプトの国中に死の刑罰を与えました。すなわちエジプト中の全ての長子が一晩にして死ぬという事件が起こるのです。その神罰が下る前に、神はイスラエルに対して不思議な命令をされます。それは、門に子羊の血を塗っておけというものでした。そして門に血がある家には、災いが過ぎ去るようにされたのです。その結果、エジプト中は死と悲痛に包まれたのですが、イスラエルの人々にはその災いが及びませんでした。
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。(出エジプト12:13)
「わたしがエジプトの地を打つとき」と書かれていますが、何も神様は直接ご自身で動かれるわけではありません。天使を遣わして執行させるのです。出エジプト12:23には、その執行者のことを「滅ぼす者」と表現しています。大統領が「戦いを始める」と宣言したからといって、自分で銃を手にするわけではなく、兵士たちを遣わすのと同様です。とにかく、神様は「血」の犠牲のあるところには、神罰が及ばないようにされるのです。
さて二体のケルビムが契約の箱の蓋の上にいて、箱の中心を見ていたと言いましたが、彼らが注目していたのは、神の言葉である「十戒」とその上の蓋とその上にふりかけられる「血」だったのです。いくら十戒に蓋の覆いがあったとはいえ、蓋だけでは正しい神の言葉に反して罪を犯す人間を、罰から免れさせることはできません。必ず「血」が振りかけられる必要があったのです。それでは、それに関連する箇所の確認してみましょう。
アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。(レビ記16:15)
罪のためのいけにえの血を「贖いのふた」に振りかけるように指示があります。そしてその血をケルビム(天使たち)が見ているわけです。そして血がそこに振り掛けられることによって、イスラエルの民は罪赦(ゆる)され罰を受けることを免れたのです。天使たちも血を確認すると、それ以上その人の罪を追及しなかったのです。
どうして天使たちは「血」を見ると、それ以上人に罰を与えないのか? 何を根拠に神は人々の罪を赦されるのか? ということに関しては、これまで何度も書いてきました。旧約の時代には、動物の血が流されたのですが、これらは象徴であり、神の「良し」とされる犠牲は動物ではありませんでした。傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血(命)によって、人類は罪赦され神の前に贖われたのです。旧約時代の契約の箱の蓋に、「贖いのふた」という名前が付けられていたのは偶然ではありません。神様が(モーセの時代から見れば)はるか先に、キリストの血をして人類の罪を贖う(覆う)ことを定められていたので、そのような名前が付けられていたのです。
21世紀の現代においても、インディー・ジョーンズの映画のように、「契約の箱」を探そうとする人たちもいますが、それは影を追うようなものです。真打ちはキリストなのですから。契約の箱には祝福と神罰が伴うと以前書きましたが、私たちはこれ以上「罰」を恐れる必要はありません。神様を畏れをもって愛しつつ、キリスト・イエスを通して与えられる神の祝福(愛)のみを受け、それを隣人と分かち合っていけばよいのです。今日でも私たちは依然として罪人であり、正しい神の言葉(律法)に直面できず、天使の罰を受け得る存在です。しかし、そんな私たちのためにキリストの血の犠牲が払われたので、私たちは大胆に神様の前に出ていくことができるのです。
【まとめ】
- 契約の箱の中には十戒(律法)があり、その蓋を天使が見つめている。
- 天使は神のしもべであり、自分で何かを判断することはない。
- 律法を犯す者に罰を与えるのも天使の役割である。
- その蓋に血がふりかけるとき、民は天使による罰から免れる。
- 今日の私たちはキリストの血により永遠に罪赦され、大胆に神様の前に出ることができる。
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