先日、ある研究者の方々と何十年、何百年も前に書かれた哲学者や政治学者の書籍について話すことがありました。そこで話されたことは、何十年、何百年も前に書かれた内容が現代社会に通用するということです。それは、人間の外側が変わっても内側は何も変わっていないことを意味します。私たちの心はどうでしょうか。私たちの心は時代と共に変化したのでしょうか。
雅歌書5章8節に「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください」とあります。この「私が愛に病んでいる」と言う雅歌の言葉は、昔も今も変わらない心や人格の病を適切に表現しているように思うのです。この「愛の病」は人のことではなく私たちの問題です。その中心は、私たちが自分自身をどう見て、どのように受け入れているかにかかっています。別な言い方をすると、「自分を愛しているか」という問いと受け取ることができます。この「自分を愛する」とは「自己愛」ということです。
私たちにとって注意すべきことは自己愛と利己愛の違いです。利己愛はエゴイズムですが、自己愛は違います。ルカの福音書10章27節で「すると彼は答えて言った。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります」。また、マタイの福音書22章39節には「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とあります。
聖書は、「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せよ」と言っています。私たちの順番は「神を愛し、隣人を愛し、自分を愛する」となっていないでしょうか。聖書は明らかに、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言うのです。この命令は、レビ記19章18節に初めて出てきます。しかも、パウロはガラテヤ5章14節で「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」とさえ言っています。
聖書は、明らかに自分を愛せない者は隣人を愛せないと明確にしています。つまり、隣人を愛する前提は自分を愛する(自己愛)ことなのです。ですから、自己愛は利己愛のこととして理解しているとしたら非聖書的となってしまいます。まして、自己愛はナルシシズムでもありません。
では、自分を愛するとはどういうことでしょうか。自分を愛するとは、ありのままのものを受け入れることです。どうしたら、ありのままのものを受け入れることができるようになるのでしょうか。答えは一つしかありません。それは、愛されることを学ぶことです。そのために、私自身が人の好意を受け入れる必要があることを認めると同時に受け入れることです。
しかし、私たちはなかなか素直に人の好意を受け入れることができません。人の親切な行為を素直に受け入れることができない人は、上手に甘えることが下手なものです。そして、自分の素直な気持ちを我慢してしまっています。その結果、無理をしてしまうのです。疲労困憊(こんぱい)状態でもなかなか休みません。忙しいは心を滅ぼすと書きます。忙しくても休まないのです。そして、時間とともに心の中に怒りが蓄積してきます。
教会の奉仕も同じようなことが起こります。私たちは、隣人を愛し仕えようと懸命になることがあります。それが、隣人を愛することであり、仕えることであると感じているのです。そのため、自己犠牲のレベルが隣人愛と仕えることと同レベルと感じているところがあります。このような姿は、自分を愛することではありません。
イエス様は、五つのパンと二匹の魚の奇跡の後「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた」(マタイ14:23)とあります。イエス様は、多くの群衆に対応し疲れを覚えられたのでしょう。イエス様は「祈るために、ひとりで山に登られた」のです。イエス様は決して我慢して活動したのではないことが分かります。イエス様は、疲れを覚えたとき、祈り休むために一人で山に登られたのです。これが、自分を愛することです。自分を愛することは、自分で自分をケアすることです。イエス様は、自分を愛する生き方についても模範を示しておられたのです。
私たちは、疲れを覚えたとき、ちょっと席を外してコーヒーを飲むことがあります。また、趣味を楽しんだり、非日常的なことをしたり、リフレッシュをすることがあります。このように自分に対して優しく自分をいたわる行動をとります。これが、自分を愛することです。自分で自分をケアすることと言い換えることもできます。
私たちは、日常生活や教会生活の中で自分を自分でケアしましょう。そして、自分自身に優しくしましょう。自分で自分をいじめないようにしましょう。
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