1917(大正6)年5月4日。賀川は米国のプリンストン大学でBD(神学士)の資格を取得して帰国。横浜埠頭(ふとう)には妻のはるが出迎えた。留守の間、「イエス団」の事業は武内勝たちが中心になって変わりなく守られていたが、はるの報告の中には幾つかの悲しい出来事があった。
義母のみちが赤痢で死んだこと。献身的に教会で奉仕してくれた武内勝の母が過労で死んだこと。そして、勝と結婚の約束をしていたはるの妹ふみが、結婚に反対する武内の叔母のために虐待を受け、心身を患った末、急性尿毒症で死んだこと―などであった。2人は涙を流しつつ、彼らの冥福を祈るのだった。
新川の長屋に帰ってくると、賀川を驚かせたのは住人の顔ぶれがガラリと変わっていることだった。あの懐かしい日曜学校の子どもたちはどうしたろう? 彼は路地から路地を回って彼らの姿を捜し求めた。
「花枝はね、料理屋に売られていったそうでっせ。それから熊蔵と寅市はスリになって暴力団のやつらと生活しているそうな」
前からいるくず拾いの男がそう教えてくれた。賀川は目の前が真っ暗になった。「花枝はな、何度も何度もここに来て、もう会えなくなるから先生に一目会って別れが言いたいと泣いとったで」
(おお神様! あの子どもたちをもう一度この手に返してください!)血を吐くような思いで彼は祈った。しかし、二度と彼らは戻ってこないような気がした。
日曜学校にまた新しい子どもたちが来るようになったが、彼らを見ているうちに目の悪い子が多いことに賀川は気付いた。長屋では洗面器も手拭いも共同で使っているために、トラホームが家族全員にうつってしまうことが多かった。
「汚い手で目をこすってはいけないよ」。賀川はこう言いつつ、町の医者から分けてもらった目薬を子どもたちの目にさして回った。
7月になると、はるが共立女子神学校での学業を終えて戻ってきた。彼女は目薬を入れた小さなバケツを持って路地から路地を回り、目薬をさして回った。子どもたちはすっかりはるになつき、彼女にまつわりついて、どこに行くのもついて行った。
賀川は、「イエス団」の事務所である2階の一室をこのために開放し、「イエス団友愛救済所」と大きく書いた看板を出した。実業家の福井捨一(すていち)が経費を負担してくれ、西宮の姫野医師が午後だけ診療に来てくれることになった。
8月。はるは眼病を患い手術を受けたが、片方の目は失明に近い状態になってしまった。そして同じ時期に、はるの父親、芝房吉が亡くなるという知らせが届き、二人は打ちのめされた。
しかし、同時に喜ばしいニュースがもたらされたのである。名古屋医大専門学校出身の馬島僴(まじま・かん)という医師が訪ねて来て、賀川夫妻と親しく語り合った。そして、彼らの窮状を知ると、一家をあげてこのスラムに移り住むことになったのである。
馬島医師は、誠意を込めて人々の診療を行い、相談に乗ったりしたので、間もなく新川の人々は彼を慕い、何でも話すようになった。
この頃から、賀川は最下層の人々が生きていくために労働問題と取り組み始めていた。米国で初めて労働者たちのデモ行進を目にしたとき、労働組合の理想が心の中にひらめいたのであった。
彼は働く青年を集めて自治工場の建設に乗り出し、日暮通6丁目の工場を買い取り、モーターを設置してから彼らを大阪の歯ブラシ工場に見習いに行かせた。
しかし、新川の青年たちは仕事を覚える気がなく、やり方も粗雑で、できた製品はひどいものだった。そのうち、彼らは部品を盗み出したり、金庫の金に手を付けたりし始め、結局工場を閉鎖せざるを得なくなった。
1918(大正7)年7月23日。富山県の漁夫・沖仲士の婦女50人余りが港に押しかけ、米の積み出しを阻止。その後、約300人の人々が町の米屋を襲い、米を安く売ってくれるよう訴えた。これが「米騒動」の始まりだった。第一次大戦の影響で貨幣の価値が変わり、米の値段は日増しに上がっていた。
8月12日。新川の労働者たちも米屋を襲う。店をめちゃくちゃにし、放火した末に米を持ち去った。賀川は悲劇を未然に防ぐため、兵庫県庁に行き、清野(きよの)知事に町中の酒屋を閉店させ、一週間の禁酒令を出してほしいと頼んだが、相手にされなかった。
果たして、暴徒化した彼らは酒屋を襲い、店中の酒を飲み干した末、棒や角材を振り回して大暴れした。ついに軍隊の出動となり、500人ほどの警官隊が新川にやってきた。
そして、必死で抵抗する人々を逮捕し、全身血まみれのその身柄を連行して行った。この事件は、やがて日本に忍び寄る不吉な影の前触れであった。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。