赦されていた
互いに優劣を競い争い合ったキリストの弟子たちが、「互いに愛し合う」関係を築くために、神は、イエス・キリストが十字架に架かられる受難の一週間と、その後のキリストの復活の期間を用い、彼らの関係性を劇的に変えていかれ、初代の教会が誕生していきました。
このたびも、その軌跡を追っていきましょう。これは、今日、私たちの人間関係にも深く関わっていくことだからです。前回の続きです。
「さあ来て、朝の食事をしなさい」(ヨハネ21:12)
「イエスは怒っている。赦(ゆる)されてはいない。きっと叱られる。叱られて当然だろう」。復活のイエスに出会ったペテロは、そう思ったのではないでしょうか。ペテロにとって、復活のイエスとの再会は、死んだ人がよみがえったという驚き、救い主の再会という喜びと共に、身構えるものがありました。ほんの少し前に「知らないとは決して言わない」と言い切ったからです。
自分自身がイエスを裏切った自分を赦せずにいました。自分を責め、自分を罰していました。ペテロは思いました。「他人を赦せないことはよくあった。けれども、今は自分を一番赦せなくなった」。
主の復活後、「いつ怒られるだろうか」と、そう思って数日が過ぎました。他の弟子たちも同じ思いでいました。自分自身の卑劣さを決して赦せず、どん底に堕(お)ちたような惨めな自分とどう向き合えば良いのか分からずにいました。
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい」(ヨハネ21:12)
そう言われたイエスに、弟子たちを叱る姿はなく、結局、何日たっても叱られることはありませんでした。最初は、不思議に思いました。けれども、このどん底の体験で、やがてペテロや他の弟子たちが新たに発見したことがありました。「こんな自分を赦す神・イエスがいた」
どん底であったからこそ、イエスの赦しの深さを新たに知りました。やがてキリストの証人となるペテロのために、神が最も知らせたかったことの一つでした。後に、ペテロや他の弟子たちは、聖霊の働きによって、「イエスは赦し、愛し、受け入れてくれていた」と確信するようになりました。
「ひどいことをしたにも関わらず、自分は神に赦されていた」。そう思うと、自分との向き合い方も変わり始めました。「自分も自分を赦そう」。どん底で赦された体験は、それまで裁き合った弟子たちの関係・日常を変えていくことになりました。
赦せていない自分はありませんか。
【祈り】 主よ、私が自分の愚かさを認めることができますように。
この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
(ヨハネ21:1~14)
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