「愛し合う」ための「入り口」
互いに優劣を競い争い合ったキリストの弟子たちが、「互いに愛し合う」関係を築くために、神は、イエス・キリストが十字架に架けられる受難の一週間と、その後のキリストの復活の期間を用い、彼らの関係性を劇的に変えていかれ、初代の教会が誕生していきました。
このたびも、その軌跡を追っていきましょう。これは、今日、私たちの人間関係にも深く関わっていくことだからです。前回の続きです。
するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(マルコ14:72)
ペテロはとうとうイエスの言われた通り、三度イエスを「知らない」と言ってしまいました。自分の中に「イエスを知らない」と言ってしまう自分がいたことに、彼は驚き、深い失望を抱き、泣き続けました。
「誰が一番偉いのか」と言い争い、ペテロ同様「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言っていた他の弟子たちも、逃げ出してしまう自分であることに、この時まで誰一人気付いていませんでした。
この後、新しく生まれるキリストの教会は「あなたがたは互いに愛し合いなさい」との言葉がやがて実現していきます。しかし、最も障害になる要因は、主に選ばれ救われた者同士が、なおも自分の本当の弱さや罪深さに気付かず、兄弟姉妹を裁き続けることです。これが愛し合うことを妨げるからです。
この自分自身の弱さや罪深さは、聖書を読んで頭で理解できることではなく、イザヤのように圧倒的な聖さに触れた体験(イザヤ6:1~8)、またはペテロのように自己絶望に至るような体験によって、それまで見えていなかった愚かな自分、認めていなかった本当の自分の醜い姿と出会います。
この体験は痛みや苦しみ、恥ずかしさを伴うものですが、「互いに愛し合う」教会が生まれ育つために、どうしても通る必要のあるものなのでしょう。「死」が「永遠の天の御国」の「入り口」であるように、ペテロには「自己絶望」の体験が「互いに愛し合う」ようになるための「入り口」になっていきます。
私たちは自分の醜い姿を受け入れるのに時間が掛かることがありますが、イエスはそんな私たちを既によく知っておられ、既に愛し認め、受け入れています。
自分が惨めに感じたことや、自己絶望の体験をして、悲しみ続けたことはありませんか。実はそれは「互いに愛し合う」ための貴重な体験です。ただそんな自分をありのまま認めてこなかったのではないでしょうか。
失敗や恥ずかしい体験をして、「こんなはずではなかった」「あんなことをしてしまった」と思い、落ち込んだり、自分を惨めに思うようなことは、まだ自分の本当の姿や能力の弱さを、ありのまま認めていないでいるのかもしれません。
【祈り】 神様、互いに愛し合うために、私が自分の愚かさを素直に認める者としてください。
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。
あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。
ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。
すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。
しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。
するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
(マルコ14:63~72)
◇