愛し合うことを妨げる「恐れ」
そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。
イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。
(マルコ14:26~31、新改訳聖書)
ペテロは力をこめて言った、「たとい あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
(マルコ14:31、口語訳聖書)
「あなたがたはみな、つまずきます」と言われたイエスの言葉に、ペテロと他の弟子たちは激しく反発しました。自分のセルフイメージ・理想の姿と真逆の姿を指摘されたからです。
ペテロには、自分で思い描いた理想の姿がありました。「おれはイエスについて行く。裏切るようなやつはダメだ。『知らない』と言うようになったらおしまいだ。お役に立てなくなるし、恥ずかしい」といったように。
ペテロに限らず、私たちも自分でセルフイメージを持ち、また自分の将来や人間関係、経済的なこと、仕事や学校の部活動などで「行き詰まったら、乏しくなったら、失敗したらどうしよう」「そうなったら、だめだ、おしまいだ」などと考えがちです。思い当たることはありませんか。
ペテロはまた、他の弟子たちと自分を比べ、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と露骨に言い切りました。
私たちも人の弱さや貧しさを見て、心の中で「あの人みたいになったらだめだ」と思うことはないでしょうか。私たちがこのように思い、考えてしまうのは、一つの原因があります。
心の底に「恐れ」があるからです。
そして「恥をかかないように頑張ろう」などと、努力しています。人目を気にしたり、人に余分な気を使ったり、仕事や勉強、教会の奉仕を必要以上に頑張る背景が「恐れ」になっていないでしょうか。
これは「互いに愛し合う」ための大きな障害物にもなっています。自分の中の恐れは、隣人にも同じ恐れを背負わせるのです。そして、恐れているものは「人に知られたくない」とも思い、また「認めたくない」とも思いがちです。
だからこそ、まずは神の前で問い直しましょう。
【祈り】 神様、私にも恐れているものがあります。それをはっきりさせ、一つ一つ主の前で認めていきます。助けてください。
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