「やられたらやり返す。倍返しだ!」。これは、2013年に放送されたテレビドラマ「半沢直樹」に登場する主人公の決めセリフだ。一躍流行語となり、2013年の新語・流行語大賞で年間大賞を受賞した。強い復讐(ふくしゅう)心の恐ろしさというよりも、手加減しない報復を当然とする割り切った感覚が視聴者にインパクトを与えたのかもしれない。
社会には、この「倍返し」程度では気が済まぬ人々がいる。倍どころか、10倍、100倍もの報復措置を講ずることを常として生きている人々である。例えば自己愛性パーソナリティー障害と呼ばれる心の問題を抱えている人々だ。
自己愛性パーソナリティー障害の人々は、常に自分のことで頭がいっぱいで、他人の心情を感じ取る共感性がなく、他人の立場や事情に思いを至らせる想像力を働かせることがない。
彼らは自尊心が非常に高く、自分のプライドが傷つかぬよう多大な努力と細心の注意を払い、しばしば完璧主義者である。そして周囲にもそういう自分にふさわしい「特別扱い」を要求するが、他人にもまた自分と同じようにさまざまな感情があり、傷つきや痛みがあることを全く知らない。相手もまた「人間」であることが認められないのだ。
周囲の人々は自分の素晴らしさを際立たせる舞台装置にすぎず、自分の価値と才能を引き出す小道具でしかない。当然、これでは健全な人間関係を築くことはできないので、人間関係の摩擦やトラブルが絶えることがなく、常に孤独感を抱えている。
しかし、彼らの感じている孤独感とは、人と対等につながりたい、というものではなく、誰も自分のよさを分かってくれない、自分の価値と努力を理解できるだけの高い能力を持った人が周りにいない、自分にふさわしい優れた集団に属す機会に恵まれない、というような孤独感である。自分にふさわしい地位や待遇、敬意が得られていないという不満をつぶやくことも多い。
この自己愛性パーソナリティー障害の人々の尊大な心は、非常に傷つきやすい。根底に自己肯定感がなく、自信がないからである。彼らの自我は、ひたすら周囲による評価、称賛、羨望(せんぼう)、周囲との格差(学歴、業績、家柄、富、才能、美貌など)で支えられているといってもよく、いつも他者との比較に汲汲(きゅうきゅう)としているのだ。
そのような彼らの自己愛をうっかり傷つけてしまったとしよう。すると、たちどころに想像を絶するような怒りと猛攻撃を浴びることになる。その唐突な怒りはあまりにも激しく、いったいなぜそんなに怒るのか、にわかには理解できないほどだ。泣き怒りのような、苦痛を帯びたすさまじい憤怒を長時間にわたって浴びせかけてくる。
これは発作のようなもので、長い年月にわたることはまずないが、怒りがおさまった後でも、いったん唾棄した対象との関係を修復する姿勢は示さぬことが多い。普段は人目を意識する人々だが、怒りのさなかでは節度を失い、思いつく限りの罵詈(ばり)雑言、ぞっとするような悪魔的な呪詛(じゅそ)の言葉を続けざまに投げかけてきたり、普段は知性溢れるはずの人が、まるで小学生のけんかのように幼稚な悪口雑言を吐き散らす姿に驚かされたりすることがある。
しかし、そのように理性を失ったかに見える局面でも、ターゲットの人物以外の目からはその修羅場を巧みに隠蔽(いんぺい)し、法に触れたり、後々自身に不名誉や損害が及んだりすることがないように策を講じることも珍しくはない。職場などでの“パワーハラスメント”、家族や恋人との間の“ドメスティックハラスメント”、大学などでの“アカデミックハラスメント”などでは、隠蔽された状況下で攻撃が繰り返される場合が多い。
これらの怒りの衝動を自己愛憤怒(じこあいふんぬ、Narcissistic rage)と呼ぶ。自己愛憤怒の大きな特徴は、客観的に見たとき、怒りの「原因」と「結果」のバランスが全くとれていないことだ。彼らの内面では、被った傷つきに対して応分の報復をしているつもりなのかもしれないが、他者から見ると、到底応分には見えず、まさに100倍返しのスケールで復讐劇が演じられるのだ。
これは「半沢直樹」のようなゲーム的な報復ではなく、傷ついた自己愛の痛みに耐えかねて衝動的に繰り広げられる、生き延びるための表現としての復讐である。アメリカの精神科医であるJ・F・マスターソン(James F. Masterson)はその有様を、成長より破壊を選ぶ、と書いている。つまり、どんな説明や謝罪、とりなしや和解案も一切受け付けない破壊的な怒りが表現され、そこには苦痛を乗り越えて許しを決断し、寛容を学ぼうとするような、人間として一歩成長しようという姿を期待することはできない。
この激しい自己愛憤怒を集中的に浴びると、ターゲットにされた人は呆然と麻痺したようになり、すぐには立ち直れないほど疲弊する。この自己愛憤怒の直撃を受ける方もたまったものではないが、こんなことを繰り返しながら人生を歩んでいる本人も相当に生きづらいはずである。
どうしたらこの傷つきやすい自己愛の問題を克服できるのだろうか。次回、この問題について、聖書の中にヒントを探しながら考えてみたい。
◇