新年早々に失敗談を打ち明ける。といっても、今から10年以上も前のエピソードだ。
大きな病院の救命救急センターで連日のように自殺未遂の患者さんを診ていた。当時、その施設には年間100人を超える自殺企図患者さんが入院してきた。私は良くない意味で診療に「慣れて」しまっていたのかも知れない。その患者さんは、複雑な社会的事情の中で苦しみ抜いた末に自殺を図った中年の男性だった。
ベッドの脇には白い杖が立てかけてあった。その男性は、幼少時から全盲だった。私はベッドサイドに座り、面接を始めた。
患者さんは、自殺を図るまでに追い詰められた、複雑な事情と苦悩を話してくれた。一通り聴き終えた後で、私は大体こんなことを言ったように記憶している。「目が不自由な上に、そのような苦労が重なって、さぞ大変だったことでしょうね」
ところがその途端、患者さんは起き上がって、声を荒げてこう返してきた。「先生、私は目が不自由だからとはひと言も言っていませんよ。そういうのは視覚障害者に対する、よくありがちな無理解です。今の私は全盲で苦しんでいるのではないですよ。目が見えなくて可哀想だと思ったんでしょう?視覚障害者の気持ちはそうじゃないですよ、先生、よく憶えておいてください。認識を改めてください」。私ははっとしたが、患者さんの言う意味がよく理解できたので、直ちに心からの謝罪をした。
今年、医師になって27年目を迎えるが、多くの患者さんを診療する経験を積んだので、ある程度の勘がはたらくようにもなった。「先生、よくわかりますね、どうしてそんなに人のことがわかるのですか?」などと患者さんや周囲の人から驚かれたり、お世辞を言われたりすることもある。そのようなときには、この視覚障害の患者さんの言葉を思い出して、慢心しないように自分を戒めることにしている。そして次の聖書箇所も思い浮かべる。
マルコの福音書10章51節では、イエスの前に立った目の不自由な人に対して、イエスは「私に何をしてほしいのか」と尋ねている。もし我々がその場に立ち会ったなら、それはさぞ間抜けな質問に思われたのではなかろうか。癒やしの奇跡を起こして様々な病気を治しているイエスの前に、全盲の人が立ったのだ。わざわざ聞かなくとも、目を治してもらいたいのに決まっているではないか、そう思う方が自然であろう。しかしイエスは私がおかしたような間違いをしていない。相手が一見して目が不自由だとわかっていても、「目が見えるようになりたいと望んでいるに決まっている」などと勝手に断定しなかったのだ。先入観を持たず、相手の必要を知るプロセスを省略せずに、丁寧な言葉で尋ねている。イエスは「何をしてほしいのか」と問いかけている。質問は、“yes”、“no”では答えることの出来ない、いわゆるオープンクエスチョンのスタイルだ。相手の考えを相手の言葉で表現させ、正確に捉えるときの基本的な手法をきちんと守っている。
聖書の中には、医療者やカウンセラーなど、全ての援助者がとるべき基本的な態度を教えられる箇所がたくさんある。ここの箇所もその一つだ。相手の本当の必要を知るには、まずは先入観を排して、虚心坦懐に正面から向かい合い、丁寧に相手の言葉に耳を傾けることが大切だ。“yes”、”no”で答えられないオープンクエスチョンを向けることによって、相手の言葉で自由に発言してもらえる。先入観や決めつけは禁物。どんなことを言われても驚かない姿勢、無批判な態度、忙しそうにせず、時間はたっぷりあるように見せ、相手に最大の関心を示して話を聴く態度をとってこそ、深い苦悩を打ち明けようという気持ちになってもらえるのだ。
どんな仕事でもそうかも知れないが、キャリアを積んで勘が磨かれてくると、手間のかかるプロセスを省略したくなるものだ。迅速に結論が出せるので、ベテランならではの冴えたスキルとして光り、実際に役に立つことも多い。しかし経験が長くなってきた今こそ、イエスでさえ基本に忠実だったことを今一度心に覚えて、新たな年、臨床に臨んで行きたい。
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