私は最近、歴史に興味があり、教科書に載っていることとは異なる史実とか、裏側から見た事実とかいう書き出しに魅(ひ)かれます。
1853(嘉永6)年に米国のペリー提督が、黒船4隻を引き連れて江戸湾にやってきたときは、日本中がひっくり返るような大騒ぎになります。江戸の町を焼き尽くす大型の大砲を備えていただけでなく、いざ上陸したとき、陸上でも戦える兵士もスタンバイしていたといわれます。
日本側からすると、軍備を背景にして力で鎖国をやめさせようとした脅威であり、とてつもなく大きな存在に見えます。しかし、ペリーの日誌などによると大変興味深いことが分かります。
英国から独立して間がない新興国の米国としては、産業革命の先行したヨーロッパに何としても追いつきたいということで、綿花中心の輸出から工業製品に切り替えようとしていました。そのために機械の潤滑油やランプの油として用いていた鯨油が不足していました。捕鯨を発展させるためにはアジアに補給基地が欲しかったのですが、そのために日本が好都合のロケーションだったのです。また、英国、フランス、ドイツは東南アジアを植民地化し、清国にも食い込んでいました。この一角に加わりたいという野望があったといわれます。
大西洋からアフリカの喜望峰を回り、インド、清国経由で日本に来ますが、難航海だったようで途中で乗組員も1人亡くなっています。日本に来たとき、下田で上陸し、乗組員の葬儀をお寺でしています。その時に賛美歌を数曲歌っています。その一つが今でも歌われている”Jesus loves me(主われを愛す)”だといわれます。
1854年に日米和親条約、58年に日米修交通商条約を結びます。これが米国にとっては大きな転機になります。日本の金、銀を安く仕入れることで莫大(ばくだい)な利益を生み出します。また、生糸の仕入れももうけになります。1861年から5年間、南北戦争をしますが、その復興にも貿易での利益が役立ったといわれます。アラスカ州をロシアから即金で買えたのも日本での金、銀の取引のおかげだといわれます。
太平洋戦争が終わったとき、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印式が行われますが、その位置はペリーの乗っていたサスケハナ号が停泊していたところであり、しかもその時ペリーが掲げていた星条旗をミズーリに掲げ、調印式に臨んでいたのです。米国ではペリーの功績が大変評価されていたようです。
この黒船には、日本の歴史に影響を与えた札幌農学校とつながりがある人も乗船していたようです。初代校長は調所広丈ですが、この方は財政破綻するといわれていた薩摩藩を清国との密貿易、黒砂糖の専売などにより10年間で黒字にした調所広郷の息子です。本来は(ずしょ)と読みますが、(ちょうしょ)という読み方に変えていたようです。
札幌農学校の1期生の1人が、伊藤一隆ですが、クラーク博士の立ち会いのもと、洗礼を受け、クリスチャンになっています。クラーク博士はわずか8カ月で日本を去ります。そのあとに入学してきた内村鑑三、新渡戸稲造などに個人伝道したのが伊藤一隆なのです。日本で最初のサケ・マスの孵化場を作り、また新潟で石油の研究をした人としてその名が知られていますが、信仰の遺産も忘れてはいけないと思います。彼の個人伝道により、日本を代表するクリスチャンが生まれたことはかけがえのない業績ではないでしょうか。
私は後世に残す資産もないし、何も特別なものはないと嘆く必要はないと思っています。私の伝えた聖書の言葉が誰かの心の中で生きていたらそれで十分です。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない」(Ⅰペテロ1:24)
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