司馬遼太郎(1923~1996年、本名は福田定一)は大阪に生まれ、1944年に大阪外国語学校蒙古語科を卒業し、入隊後に倒産した新聞社から産経新聞社に入社。同社の記者時代の1956年に『ペルシャの幻術師』で講談倶楽部賞を受賞。この時から司馬遼太郎の名を使う。
翌年に『兜率天(とそつてん)の巡礼』を発表。1960年に『梟の城』で直木賞を受賞。翌年に同社を退社して作家生活に入る。1975年に『空海の風景』を中央公論社から出版。
『ペルシャの幻術師』『兜率天の巡礼』『空海の風景』には景教について書かれてあり、『兜率天の巡礼』では兵庫県赤穂市にある大避神社のことが初めて公に書かれ、秦氏のルーツがユダヤ人であり、仏教が日本に入る以前からキリスト教系の部族といわれる秦氏が渡来し、それが弓月君で、彼の神がキリスト教の神・ゴッドで、その神社がダビデ会堂、そこに「いさら井戸」があると書きました。
そのいさら井戸はイスラエル井戸とか、やすらい井戸とかいわれています。そして秦河勝が生まれる以前に古代中国から瀬戸内海を通って赤穂に来、京都で井戸を掘って都を定め、やがて奈良の大和に移住、そこの女性と結ばれて秦河勝が生まれ、そこで聖徳太子に出会ったこと、太秦の三柱鳥居、能面なども書きます。
河勝一行は播磨に戻り、のちに山城の国、今の京都に行き聖徳太子を大和から迎えるなど、それは古代を幻想した歴史的推理小説といえるでしょう。
また景教の始祖こそネストリウスとし、ネストリウスとキュリロスとの異端論争である431年のエペソ会議での神学論争を小説特有の描写で説明します。しかし、司馬遼太郎の死後の翌年1997年にはローマ教皇と東方アッシリア教会の大司教とが相互に謝罪し合い、ネストリウスの立場を回復させたと思います。彼は日本とユダヤ民族が古代でつながっていたという日ユ同祖論も展開しました。
『空海の風景』では、遣唐使として入唐した空海が、唐の都長安(今の西安)にあった景教(景教とはイエスの教えのこと)会堂の大秦寺(大秦とはユダヤのこと)に行き、781年に建った大秦景教流行中国碑を見たことを大胆に書き、これによって空海と景教との関係が知られるようになりました。
空海と景教との関わりについてははっきりした証拠はありませんが、著者が代表する日本景教研究会の機関誌において発表されたところを紹介しますなら、空海の中国でのサンスクリット(梵語)語の先生の般若三蔵と景教碑の撰述者の牧師の景浄とが知り合いであったことは事実で、また空海の書物の中には聖書に似た言葉もあり、真言密教の儀式にはキリスト教に似たものもうかがえます。しかし、彼の小説の史実性を問えば謎といえるでしょう。
写真は高野山奥の院に立つ司馬遼太郎記念碑。サインも彫られた大きな碑である(筆者が撮影)。
京都太秦に建つ三柱鳥居といさら井戸(拓本と著者)
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
『司馬遼太郎全集』(文芸春秋社)
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