「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(コスモス)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
私の知人がギリシャに行き、電車に乗っていたそうです。電車は通勤時刻と重なったため、とても混んでいたそうです。その時に、ギリシャ人が「これはコスモスだ」と叫んだそうです。「人がいっぱいだ」という意味だと思います。
神がこの世をご覧になられたとき、大勢の人々が地球上でひしめいていました。神は、その一人一人を識別し、「愛する」と言っておられると思います。
これは90歳を過ぎた一人のクリスチャン長老に聞いたお話です。その方が青年だったころ、ある教会で伝道集会が計画されました。看板が作られ、案内のチラシが配布されましたが、集会にやってきたのはその青年が一人でした。大勢の人々が押し掛けると思っていた宣教師はとても落胆し、集会を中止したそうです。その青年は後にラジオ伝道によって導かれ、信徒伝道者になります。
これとは別の話もあります。ある牧師が伝道集会の講師として招かれました。十分な準備がなされていたはずなのですが、集会に誰一人現れないのです。招かれた牧師は、「もう帰りましょうか」と話したそうです。そうすると、宣教師が「せっかく来たのですから、壁に向かって話してください」と言ったそうです。
その牧師は壁に向かって力を込めて語ったそうです。そして、話の最後に、「人生の決断をしたい人、希望を求めている人、救いを求めている人は前に出てきてください」と勧めたそうです。そうすると、裏口から一人の青年が現れたというのです。
この青年は集会に興味はあったが、会場に入る勇気はなかったというのです。壁に耳を押し付けて聞こうと思っていたら、誰もいないのに集会が始まり、最後に呼び掛けがあったが、これは自分のためのものだと思ったというのです。
イエズス会のシドッチ神父(1668~1714年)は、鎖国が強化され、キリシタン禁令が厳しくなった日本に殉教覚悟でやってきます。1708(宝永5)年、夜間、屋久島に上陸しますが、島民に見つかってしまいます。本人は種子島に上陸を希望していたのですが、夜間のため、見間違ったといわれます。
長崎奉行所から屋久島に役人が到着するまで一週間かかりますが、この間、島民はとても親切に対応してくれたようです。やがて長崎から江戸に送られ、新井白石の尋問を受けることになります。新井白石はシドッチ尋問で得た情報を『西洋紀聞』などに記しますが、これが日本の人が西洋の事情を知る窓口になります。
シドッチはキリスト教を伝道しないという条件で厚遇されますが、その生き様を見ていた長助・はるという老夫婦が死を覚悟の上で入信を申し込みます。結果的に伝道したことになり、入獄しなければならなくなります。最後は獄死しますが、シドッチの与えた影響は大きいといわれます。
1841(天保12)年、14歳のジョン万次郎(本名:中濱満次郎、1827~98年)は、漁の手伝いのため、漁船に乗り込みます。嵐のため、5日間漂流し、無人島の鳥島に漂着します。143日目に米国の捕鯨船に発見され、救助されます。仲間はハワイで降ろされますが、万次郎はホイットフィールド船長に気に入られ、一緒に航海を続けた後、米国に行きます。
米国ではホイットフィールドの養子となり、オックスフォード大、バーレット・アカデミーで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学びます。万次郎は教会にも通っていますが、通っていた教会で人種差別を受けたため、養父のホイットフィールドが怒って所属教会を変えたというエピソードもあります。
1851(嘉永4)年に薩摩藩に服属していた琉球(沖縄)に上陸を試みますが、鎖国状態だったため、取り調べを受け、薩摩藩に送られます。薩摩では島津斉彬が厚遇し、藩士に造船技術や航海術を教えます。この技術をもとにして、薩摩藩は日本最初の軍艦を造ります。英語の指導にも当たりますが、英国留学する五代友厚もその中に含まれています。
長崎奉行所の取り調べを経て土佐藩に帰りますが、土佐では河田小龍が万次郎から聞いた話を『漂巽紀畧』5巻などにまとめます。この本が坂本龍馬の思想にも大きな影響を与えたといわれます。ペリー来航以来、米国との対応に迫られた徳川幕府は、万次郎を旗本として迎え入れます。
一人の人間としては大海の荒波にもまれ、のみ込まれそうな小さな存在であっても、神様が見守っていてくださり、道は開かれていきます。どんな状況であっても志があれば、大きな働きとなることを歴史からも学べるのではないかと思います。
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