「人間は不完全な存在であること」は、私たちの誰もが知っていることではないでしょうか。しかし、私たち自身が「不完全な人間であることを受容しているか」ということとは別な問題です。ここで問題にしているのは、不完全な人間というより人間の不完全性という点です。私たちは、限界があり、依存しなければ生きていけない存在です。特に、依存性の問題に関しては、人間の堕落の出来事以降に起こったことと理解する人々が少なくありません。
しかし、人間の依存性は神様の創造の一部です。人間の依存性は創造の初めから与えられていたものです。神様は、最初の人間アダムにふさわしい助け手がいないことに心痛められ、エバを創造されました。このアダムとエバの関係性の中に、依存性の究極を知ることができます。神様は、人類最初の夫婦関係の中に、豊かな人生を生きるように依存性(相互依存)を創造されたのです。ですから、人類最初の夫婦関係性を通して、神様の深いご配慮がなされていることを知ることができます。
その意味することこそ、「人は1人では生きていけない存在だ」ということです。それだけ、私たちは、他者の助けを必要とする存在です。そればかりか、人間は1人で満たせないさまざまな欲求が多々あるからです。この姿こそ、人類共通の弱さと言うことができるのではないでしょうか。私たちに与えられている共通の弱さこそ、「私たちが豊かな生を生きるように」と創造されたものであることが分かります。
ところが、依存性の課題は、本来の目的から外れ、アディクション(嗜癖[しへき])となってしまったところにあります。アディクションとは、「やめようやめようと思いながらも、やめることのできない悪い習慣にふけってしまうこと」です。
最近の傾向として、病的賭博、摂食障害、処方薬や市販薬への依存、アルコール問題、セックス依存、人格障害の併存など、嗜癖問題の多様化や複雑化によるものであることが多く認められています。このような社会現象の中で立っている教会は、健全な依存性の回復を目指す社会的使命が求められているのではないでしょうか。
次に、依存性と共同体の関係に関してです。人類最初の夫婦関係を通して神様は、創造の初めから共同体的な生を意図されたことを知ることができます。人類最初の夫婦は同時に人類最初の共同体です。その意味するところは、「共同体の形成は健全な依存性(相互依存)」だということです。人間は、共同体の中で存在理由や存在価値を形成するものです。そして、生きる力を養われていきます。
パウロは、教会(共同体)は弱い部分こそ大切であることを強調しています。私たちは、常に力強く生きることができません。むしろ、弱くなり人の助けを必要とすることの方が多いものです。それは、教会(共同体)が愛によってしっかりと結び合わされ、愛の共同体を形成するために必要なことではないでしょうか。
私たちは、キリストを頭とした共同体の形成の中で、キリストにあって相互に存在理由と存在価値を再発見することができたら幸いなことです。ここに教会形成の秘訣の1つが隠されているように思います。
また、神様は、依存性ばかりではなく、人間の限界性も創造されました。この限界性についてエデンの園にみることができます。神様はアダムとエバをエデンの園に置かれました。そして、エデンの園の中央に禁断の木の実を置いたのです。その上で、「この実を食べてはいけない。死ぬといけないから」と仰いました。この場所は、人間が介入してはいけない領域です。まさに境界線です。
神様は、人間とご自身の間に境界線を設け、人間の限界性を造られたのです。この境界線に人間が踏み込んではならないのです。しかし、人間は境界線に踏み込んでしまいました。その結果、万物の尺度が神であったにもかかわらず、人間が万物の尺度となってしまいました。この万物の尺度の変化は、堕落の象徴のようなものです。それは、理性万能主義の始まりを意味するということです。
こうして、人間の堕落以降、全ての領域に不完全性が及んでしまったのです。人間の限界性や依存性は、もともと堕落の出来事と関係がありません。むしろ、「神様が天地創造の時に創造された一部である」ということです。人間は、堕落によって本来の目的から外れてしまったため、さまざまな問題を引き起こしているということに他ならないのです。私は、カルヴァンが「人間は不完全だから完全を求めるのだ」と言った言葉を思い起こしているところです。
私は、いろいろな方々の話を伺っていると感じることがあります。それは、不思議なほど「私は弱い」「私は弱いから」という言葉を聞くことが多いことです。そして、気が付いたことがあります。それは、自分の惨めさを弱いと思っていることです。しかも、人々が感じている弱さは、自分と人を比較して感じている惨めさを意味していることが多いことです。決して、惨めさが弱さではありません。
さて、私たちは、共有の弱さを抱えていますが、人それぞれ違う弱さも抱えています。人それぞれ抱えてる弱さは、さまざまな失敗を通して知ることができます。それだけに、私たちは失敗と向き合う必要が求められます。
私たちが、さまざまな失敗を通して弱さを受容できてくると、人の助けを必要とする自分だけではなく、「神様を必要とする自分」も分かってくるはずです。そして、本物の謙遜な生き方が生まれてくるはずです。
もう一度、繰り返しますが、私たちは地上に生まれたときから不完全性を抱えた存在です。もちろん、養育者も不完全な存在です。従って、私たちは不完全な養育者から養育を受けてきたのです。当然、私たちの人格形成(発達)にマイナスの影響を受けています。また、プラスの影響も受けます。これらは否定できない事実です。
私たちが生きている社会は、不完全な人間の集合体であり共同体です。ですから、どんなに細心の注意をしながら子育てをしても、不完全性の影響は避けられません。私たちは、さまざまな不完全性の影響を受けながら今があるのです。
私たちは、以上のような理解を持たないまま霊的なことを強調しています。そのため、不完全性から来る弱さ(依存性)と向き合うことに難しさを感じているように思うのです。また、私たちに与えられている弱さ(依存性)と共に原罪の影響下にあることを認識しないといけません。そうしないと、罪の影響が心の中に入り込んでしまうからです。その結果、人間の弱さ(依存性)が誘惑となってさまざまな失敗と結びついてしまいます。
私たちは、このような人間性の現実の姿と向き合うことを避ける傾向があります。むしろ、関心がないと言った方がよいのかもしれません。そのため、霊的なことばかり強調してしまい、バランスを崩してしまいます。例えば、私たちが、何か問題を抱えていたり、試練や苦難のただ中で苦労しているとき、「祈りなさい」「神様が最善をしてくださることを信じなさい」「御言葉を信じなさい」などと指導されてきたはずです。
確かに、これらは間違っていません。しかし、このような言葉によって、人は「分かってもらえなかった」という感覚を持つものです。それは、人間性を無視した結果ということです。
私たちは、人間の不完全性、弱さ、原罪などが深いところで絡み合うと、罪を生んでしまうことを知らなければなりません。そして、現実の姿を受容することが大切です。この現実に立ち、イエス様と歩むことによって信仰の高嶺へと導かれていくのです。ここで、注意をしなければならない点があります。それは、「クリスチャンは信仰の成長とともに倫理的にも道徳的にも完全な者になっていく」と誤解をしている人が少なくないということです。
特に、牧師はそのような意識を確信のように抱いている人が多いように感じます。そのためでしょうか。牧師や伝道者などは、なかなか自分の失敗を通し、弱さを知り、受け入れることに困難を覚える人が多いようです。それは、弱さは自分の一部であることを受け入れることが難しいということに他なりません。
このような姿の背後には、聖化の理解による影響があるのではないでしょうか。今でも時々、聖められた人は「そんな事は言わない」「そんな事はしない」などの発言を聞くことがあります。ですから、生活の中で何らかの失敗をしても、自分の弱さとして受け入れることができないのです。かえって、自分の失敗を隠し、排除してしまいます。
弱さは必ずしも罪ではありません。この理解がないと、弱さと罪が混乱してしまいます。どんなに罪を悔い改めても、弱さは生涯残ります。私たちは、私たちに与えられている弱さと生涯付き合うのです。私たちにとって、弱さは決して罪ではない。神様の創造の一部である弱さは、豊かさです。
その弱さを知り、受け入れないために、罪を生んでしまうことが起こります。ですから、クリスチャンであってもなくても、同じ罪を犯してしまうものなのです。
私たちクリスチャンは、十字架の贖(あがな)いの故に罪赦(ゆる)された存在です。しかし、弱さは残ります。私たちは、自分の弱さを受け入れ、聖霊によって取り扱われなければなりません。聖霊によるお取り扱いがなければ、健全な弱さに生きることができません。まして、それぞれの弱さを克服することはできないのです。
聖霊のお取り扱いがなければ、時間がたち、さまざまな条件が整うと、同じ罪を犯してしまうものです。牧会者も含めクリスチャンが、自分の失敗や弱さをなかなか受容できず、適切に取り扱われないことが問題なのです。
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