私たちは誰しもが失敗をします。むしろ、失敗のない人生はありません。しかし、失敗を失敗として受け入れることができるかどうかは別なことです。私たちが、自分の失敗を受け入れることができないとき、他者の責任にしてしまうことが少なくありません。これは1つの無意識ですが、自己防衛です。
このような反応は、自分に対する価値や能力を下げないために取る態度です。本来、私たちは失敗を通して自分の弱さを知ることができるものです。しかし、自分の失敗を人の責任にしているうちは、失敗を通して弱さを知り、受け入れることが難しくなります。どんな人たちが失敗を受け入れることに難しさを感じるのでしょうか。
教会では、まず牧師をはじめ長老や役員と呼ばれる人などが該当するのではないでしょうか。それは、自分に対して高い水準を設定してしまうためです。一般的に言って、クリスチャンであっても、社会の中で生きていく上で、同じようなことが起こります。それは、自ら高い水準を設定していたり、他者から高い水準を求められてしまうからです。
なぜなら、他者から高い水準を求められるため、自分に対して高い水準を設定してしまうからです。その理由は、人々の期待通りの模範的な人になろうとしてしまうことにあります。そのためでしょうか。それが「良き証し人である」と教えられ、思い込んでいるのです。
多くのクリスチャンは、他者の要求の水準に合わせてしまい「~にならなくてはならない」「~であるべきだ」と完璧な自分になろうとしてしまいます。そして、知らず知らずのうちに自分の感情を抑圧し、自分らしさを失ってしまうのです。その結果、霊的うつ状態になってしまう人もいます。
人々がクリスチャンに求める水準は、人間的な基準であることが少なくありません。また、クリスチャン同士でも、信仰的なこととしながら、人間的な水準を求めてしまうことが多いものです。神様が私たちに期待し委ねておられる責任と、質に相違があるように思います。
さて、私たちが自分の内側に設定した高い水準を生きようとすると、心理的情緒的なエネルギーを消耗してしまいます。そして、強いストレスを感じてしまうものです。社会がクリスチャンに求めるクリスチャン像は、「温厚で道徳的にも倫理的にも模範となるべきだ」と思う傾向があります。教会員が牧師や伝道者に求める姿も同じような傾向性があります。
そのため、(怒りがあっても)表面的に柔和で愛に満ちた人を演じてしまいます。そして、心の中では緊張状態があり、精神的に疲れてしまうのです。特に、牧師や伝道者などはその傾向があります。そのため、ある人々にとっては偽善者と見えてしまうことがあります。
しかし、牧師や伝道者であっても人間ですから、内面は欲望もあり、怒りもあります。ところが、牧師や伝道者はそのような自分をひたすら抑圧し、模範的になろうとしてしまうのです。ですから、時間が経過すると次第にほころびが出てしまいます。私たちも同様です。そのため、ほころびや失敗を恐れ、なかなか受け入れることができないのです。
失敗によって抱く恐れから解放され、そこに祝福を受け取ることができるなら幸いです。そうでない場合は、失敗に対する恐れに支配されてしまいます。そのため、多くのクリスチャンたちの心に「私は救われているのか」「私はこの奉仕にふさわしくないのではないか」「私はこの教会にふさわしくないのではないか」など、疑いと不安がよぎってしまうのです。
そして、失敗の事実を事実として受け入れるよりも、別なものにすり替えてしまいます。そのため、失敗を通して自分の弱さを示され、知らされていく過程の中で、弱さに気付くことが困難になってしまうのです。
ある聖書学者は「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」(マタイの福音書5:5)を引用し、「クリスチャンは、ただ優しいというのではない。『自分には救われる根拠は何1つない』ということを知っている人が柔和な人だ」と語りました。
このことを別な言い方に適応して「自分には失敗しない根拠は何1つない」と言い換えてみてはどうかと思います。そして、私たちは「自分には失敗しない根拠は何1つない」ということを知る者でありたいと思います。
主は、私たちの失敗や弱さを通して、栄光を現してくださるのです。預言者イザヤは「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ書43章7節)と民に語りました。
主は、私たちの失敗や弱さを通して栄光を現すとおっしゃるのです。神様というお方は、私たちがどんなに失敗しても、自分を否定するようなことがあっても恥をかかないということです。私たちが安心して失敗や弱さを受け入れることを可能にする根拠は、ここにあるのではないでしょうか。私たちは、失敗の恐れから解放され、本来の自分を取り戻そうではありませんか。
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