冤罪による48年の人生を奪われ「夢の中」を生きている袴田巌という人物が、ゆっくりと表情と感情と「人間としての普通の生」を取り戻す姿を、カメラを通して私たちもまた見届ける――。
袴田事件は、日本の司法の歴史の中で最もよく知られている冤罪事件の一つだ。1966年に静岡県清水市で味噌製造会社の一家4人が殺害され家が全焼し、当時従業員だった袴田巌さんが逮捕された。1968年に静岡地裁で死刑判決が下り、1980年に最高裁で死刑が確定する。
その後袴田さんは再審を求め続け、2014年に静岡地裁は再審を決定、48年を経て東京拘置所から解放されたが、静岡地検は東京高裁に即時抗告を申し立てており、袴田巌さんは今も死刑囚のままだ。
2014年に釈放される際、静岡地裁はこう書面で述べている。
袴田は、捜査機関によりねつ造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた。無罪の蓋然性が相当程度あることが明らかになった現在、これ以上、袴田に対する拘置を続けるのは、耐えがたいほど正義に反する状況にある。(平成26年3月27日 静岡地裁再審開始決定要旨より)
司法がこのように意見表明することは極めて異例であることは述べるまでもない。この映画は、釈放された後、姉の秀子さんのマンションで生活する袴田さんの日常に密着したドキュメンタリーだ。
袴田さんは拘置所での長期の拘禁症状により、精神状態も普通ではない。姉の秀子さんによると、1980年に死刑が確定するまでは「つらい」「大変」と言うこともなく、とてもしっかりしていたが、確定後次第に普通の会話をしなくなり、最終的に自分の世界を作ってその中で生きるようになってしまったという。
食事と寝るとき以外は、ずっと部屋の中をのっそりと歩き回っている。拘置所の中で体がなまらないようにできた唯一の運動が歩くことだった名残だという。
表情もほとんど変わらない。そこからは、喜びや苦しみを感じているのかどうか見ていて分からない。しかし、逆にだからこそ、そこに死刑が確定してから35年間毎朝、死刑執行の恐怖に脅かされ続けてきたという想像すらできないほどの時間の重みと、冤罪の恐ろしさを考えさせられてしまう。
時々カメラに向かってしゃべる言葉も、現実離れした言葉でよく分からない。袴田さんはこの映画のタイトルの通り「夢の中」に生きているように見える。冤罪と死刑の恐怖の中で生き抜くために唯一できたことが、“自分の世界を作りその中で生きること”だったのだろうと思うと、本当にいたたまれない。
時折、獄中で書いた日記の文章が挟み込まれる。
ドアに付いた染みが死を意味したり
壁の色がなにか異様にみえて人間の姿に塊
その顔は大分前に処刑された者であったりする
本当に悪魔が鍵孔を操っているとしか思えない
人体と化した悪と善とを私は見ることができる月光は何故か
私に希望と安らぎを与えるものである
それはあの月を娑婆でも
多くの人が眺めていると思うとき
月光を凝視することによって
その多くの人とともに自由であるからである
袴田さんは獄中でカトリックの洗礼を受けている。日記の中には、なぜ罪のない私がずっと苦しまなければならないのかと神に問い掛ける記述も書かれている。
3人の冤罪の被害者がそろって
もっとも印象的なのは、同じく冤罪事件として有名な狭山事件で再審を求め続けてきた石川一雄さんと、足利事件の菅家利和さんが、マンションの部屋を訪ねてくるシーンだ。
石川さんは、1963年に狭山事件の犯人として逮捕され、現在も無実を訴え続けている。(ちなみにこの映画を作った金聖雄監督は「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」という映画も作っている。)2010年に再審で無罪が確定した足利事件の菅家さんは、17年以上を獄中で過ごした。
3人は東京拘置所で顔見知りだったといい、袴田さんも懐かしそうな表情を浮かべている。しかし、話しているうちにまた自分の“夢”の世界に入ってしまう。そして、こう語るのだ。
「第18代の警視総監に、今日、私もなったということでね、監獄制度で冤罪事件の問題はね考慮しにゃいかんのだな。まあ、冤罪事件ということなんだね」
このシーンをどう表現していいのか、いまだに言葉が見つからない。ドキュメンタリー映画だからこそ撮ることができたシーンなのだとしか言いようがない。ただただすさまじいシーンだと思わずにはいられない。
袴田さんを48年間支え続けた姉、秀子さん
この映画を見ていてほっとするのは、袴田さんを支え続けている姉、秀子さんの存在だ。33歳の時に袴田さんが逮捕されてから、ずっと支えてきた。80歳まで働き、資産を少しずつ増やしながら買ったのが、今2人が住むマンションだという。「いつか巌が帰ってくる」「帰ってきて住む家がないと困るだろう」。それが励みだったという。秀子さんが語るシーンがある。
「昔から冤罪はあった。今より多かった。みんな泣き寝入りしていただけ」
「うちは、そうは、いくかよ」
でも、袴田さんの食事を用意し、一緒に暮らす姿はカラッとしている。“肝っ玉姉さん”のたくましさと弟を支える優しさ、本当に頭が下がるし一抹の救いになっている。
金聖雄監督は延べ70日間、2人の暮らす部屋に通い200時間カメラを回したという。その間に袴田さんが少しずつ表情を取り戻していくのが分かる。撮影の最中の金監督と獄中の楽しみだった将棋をするが、金監督は全く勝てない。(映画製作中73連敗したそうだ。)勝った袴田さんの得意げな顔が浮かぶ。あるいは知人に生まれた乳児を抱っこして、ちょっと戸惑う様子・・・。
初めての正月には、多くのテレビ局が取材に押し掛ける。テレビカメラが映す数分のニュースでは、袴田さんは精神を病み、発言も定かではない人として報じられたのだろう。でも、2時間ずっと見続けていると、袴田さんのちょっとした表情の変化が、見ている私たちにも分かるようになってくるのだ。
人間になる
袴田さんは20代、日本フェザー級6位まで登りつめたボクサーだったという。(そしてボクサーだったことが、警察が殺人事件の犯人と見なした大きな理由だった。)日本プロボクシング協会は、1991年にファイティング原田氏(当時会長)が、再審開始のための支援を訴え、協会全体で支援を続けてきた。そして、いつか袴田さんがリングサイドで試合を見ることができるように「袴田シート」を設置してきた。
2015年、袴田さんは秀子さんと共に招待され、ボクシングの試合に招かれる。若いボクサーの試合を見る目には、精気が戻っている。拳を握りしめながら、かつて自分がどうボクシングを戦ったかを語る。その姿は懐かしそうで、そしてとても誇らしげだ。
ある日、秀子さんに黙って、一人でこっそり約50年ぶりに買い物に出掛ける・・・。
冤罪による獄房で失われ、止まってしまった時間と人生を少しずつ取り戻すように、袴田さんはゆっくりとゆっくりと表情と人間性を取り戻していく。その姿に、ラルシュ共同体の活動で知られるジャン・バニエ神父の著作『人間になる』という本を思い出し、胸を打たれた。
袴田巌さんと姉の秀子さんの2人に、そして、その2人の姿を丹念に追い続け、この映画を作った金聖雄監督に深く感謝したい。この映画を、1人でも多くの人に見てほしいと祈りたい。
■ 「袴田巌 夢の間の世の中」予告編