仏教の究極的な課題―3点―
(1)雑多性、複合性、不整合性
仏教には雑多なものが不整合に複合している。本来の仏教は哲学であり、思想であるから、全体的に統合しているはずであるが、長い間に変遷し、菩薩や他宗の諸神も取り入れられ、民間の儀式や呪術、習俗を用い、死者儀礼から現世御利益、果ては神社参拝まで広く容認せられ、これらが複合化している。調整しようという試みもあるが、統一した・一貫した教理がないので、雑多なままである。
それらが釈迦仏教なのか、初期仏教なのか、上座部仏教なのか、大乗仏教なのか、密教なのか、禅宗のものかなど、どの時代のものを取り上げるかによって、また、どの教派のものを取り上げるかによって、内容が大きく異なる。特に、宗派によって、根本仏が違い、根本教典が違い、理想境地が違う。まことに不統一である。これが一つの宗教といえるのか、疑問である。
(2)人間創作性
釈迦は実質上の無神論・無霊魂の立場に立って悟りを開いた。その教えが口承により伝えられ、文章化されたが、後に、ジャータカなどの前生物語が創作され、また仏伝文学や仏讃文学が書かれ、それが仏の神格化、超人化をもたらした。つまり、仏教は、文学という人間文化の上に乗っかっているのだ。
なおまた、大乗諸仏(といわれる仏僧たち)により書かれた大乗経典や論師たちによって書かれた“論書”が後から後へと積み重ねられ、その流れはとどまることなく、後から現れた者は前の仏典について研究・注釈・探求を続け、その結果を加えてきた。そして、仏典数にして3千、巻物数にして1万2千という膨大な量に達してしまった。(一人の人が一生かかっても読み切れないのだ)。これらの人間創作性のゆえに、仏典相互の間に、齟齬(そご)、矛盾、不統一が溢れている。
このような実態を全体的に見渡すと、仏教とは、人間による宗教構築の努力であり、その積み重ねであるとの感を強くする。客観的・絶対的真理を発見してきたというよりも、自分たちの宗教的要求を満たすような思想・物語・儀式を造り上げてきた、というのが真相だ。インド・中国・日本の多くの求道者が仏教の名のもとで苦闘して打ち立てた思想・哲学・倫理などの総体だともいえよう。
その変遷の有様、相違点の多さ・大きさ、他宗教との混淆(こんこう)・習合の現実などを冷静に見ると、仏教の中に神聖さや絶対性を見ることができない。結局、仏教は、人間による思索・探求・願望・宗教的な営みの集積である、というほかない。
(3)心理性(非歴史性、非事実性)
釈迦の教えも阿毘達磨(アビダルマ、部派仏教の論書)も大乗諸経典その他の論書も人間心理を掘り下げて、共通する良いものを捜し出した哲学・倫理であるが、それが正しいと証明するものがない。現実の歴史の中で、外的事実により裏付けられることがない。釈迦が生きて、悟って、伝えて、死んだ。このこと以外に、諸仏や諸菩薩の存在とか救済の事実を証明するものがない。経典などにある物語は、衆生に教えるための方便(作り話)であって事実ではない(と、仏典解説者もそう説明している)。仏教徒や求道者の心理的な検証以外に何もない。
“心理的な真理”は主観的であって、万人にその正当性を主張することができない。そのままでは絶対的真理とはいえないのである。精緻な分析的な議論があり、卓説もあるが、また、目を奪うような儀式もあるが、結局、仏教には客観的な証拠はなく、それらしい事実がない。仏教は心の持ち方にすぎない、というほかない。「もしかしたら大いなる幻想かもしれない」、そう言われても反論する根拠がない。正しいと思う人には正しいであろうが、そう主張するだけのことで、経典の言うことが絶対正しいと裏付けるものがない。仏教による救済が確実という保証はない。
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正木弥(まさき・や)
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
【正木弥著書】
『なにゆえキリストの道なのか 〜ぶしつけな240の質問に答える〜 増補版』
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)