疲れたとき、つらいときには、孤独感に陥り、自分は独りぼっちではないかという気持ちが心を支配し、どうしようもなく落ち込んでしまうことがあります。そういうときに信仰の友からメールが入り、「祈っているよ」という一言が添えられると、励まされることがあります。実際に祈りのノートをつくり、名前と祈りの課題を書いて、祈り続けている方々がいます。
私は牧師として何十年も生きてきましたが、つら過ぎるときは、「神様・・・」と言って祈りの言葉が出てこないことがあります。その時は「祈りの書」を朗読するようにしています。「うまく言葉では表現できませんが、この祈りの書の著者と同じ気持ちです」と心の中で訴えています。自分で祈れないときは、賛美歌のCDを聞いたらいいと提言してくださる方がいらっしゃいます。賛美歌を歌うのは、祈りと同じだそうです。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深きうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)
祈りが足りないことの言い訳になるかもしれませんが、このローマ書の御言葉は慰めになります。どう祈っていいのか分からないときや言葉が出てこないとき、御霊がとりなしてくださると思えば安心します。
仕事が順調なときは、意気揚々としているのですが、不調になり、収入が減ってきますと、不安に押しつぶされそうになり、不信仰に陥ってしまいます。「もうだめかもしれない」と弱気になり、人に会うのもおっくうになり、引きこもりがちになってしまうことがあります。ある精神医に言わせると、これは「うつ状態」になる近道だそうです。
仕事が不調のときは、神の前に静まり、心のバッテリーの充電の時と受け止めるべきなのではないかと思います。
アメリカで弟子訓練の学びを受けていたとき、「成長グループ」に参加させていただいていました。一つのグループが12名から15名です。その中にリーダーがいますが、リーダーはまとめ役で決して教えるとか聖書の解釈をするということはありません。決められた聖書のテキストを学びますが、参加者全員がその人なりに聖書の御言葉から受けたメッセージを分かち合います。
この会の特徴は全員で祈り、全員で自分の気持ちを話し合うということです。祈りも「会話の祈り」ということで誰かがその祈りに途中で入ってきます。「主よ、わたしもそう思います」という感じです。
シェアリング(恵みの分かち合い)の時は、最近の出来事だけでなく、自分の苦しんでいること、うれしかったことなどを共有していきます。参加者の家庭を回りながら、この会は開催されました。教会の中にこのような成長グループが幾つもあり、リーダーは統括に報告し、牧師の指導を受けていくというシステムでした。
30年前の学びですが、いまだに交流が続き、私の最近の祈りの課題をメールで聞いてきたりします。飾らないありのままの自分をさらけだすことができた貴重な時だったと今でも感謝しています。
私が聖書学院の学生だったときの経験ですが、週末に海辺の療養所に訪問伝道に行くことがありました。そこに年老いた姉妹がおられ、寝たきりの状態でした。しかし、この方はいつも生き生きとしていました。「私ね、ベッドから動けなくてもできる仕事があるんですよ。それはお祈りです。祈ってくださいとか、祈りが聞かれましたという手紙が来ています。病院の中にいるのにあちこちに出掛けてお手伝いしている不思議な気持ちです」と話していました。
自分が覚えていなくても、私たちのために祈り続けたり、見えないところで支援し、支えている仲間、天国で祈っている先輩たちのことを思えば、独りぼっちじゃないと知ることができます。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)
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穂森幸一(ほもり・こういち)
1973年、大阪聖書学院卒業。75年から96年まで鹿児島キリストの教会牧師。88年から鹿児島県内のホテル、結婚式場でチャペル結婚式の司式に従事する。2007年、株式会社カナルファを設立。09年には鹿児島県知事より、「花と音楽に包まれて故人を送り出すキリスト教葬儀の企画、施工」というテーマにより経営革新計画の承認を受ける。著書に『備えてくださる神さま』(1975年、いのちのことば社)、『よりよい夫婦関係を築くために―聖書に学ぶ結婚カウンセリング』(2002年、イーグレープ)。