仏教の全体的な問題点は何か(まとめ)
- 世界や一切のものの起源や終わりについて何も答えない。時間や歴史的意識に乏し過ぎる。空想性が過ぎる。
- インド人の心を支配している悲惨な輪廻(りんね)転生説について、釈迦は「私は後有(ごう)を受けず(死後の存在はない)」と否定したが、その後の仏教は、その存在について、その不合理性についての説明も考察もない。
- 釈迦仏教の理想境地は涅槃(ねはん〔静寂で苦痛のない安穏自在の境地〕)であるが。人生の行き着くところが虚無または否定にあるなら、人生の意味が見いだしがたい。
- 経典、論蔵の量が1万2千巻と膨大である。一人の人が一生かかっても読み切れない。しかも、経典相互に矛盾したものがあり、統一性・一貫性に欠ける。一つの経の中でさえ、中心思想を読み取るのが難しいものがある。前の方と後ろの方でつじつまが合わないもの、そのどれを自分の信仰の根底にすべきか、明白には定め難い。
- 超人的な仏や菩薩(ぼさつ)が、釈迦の前生譚(たん)であるジャータカなどの仏伝文学から導き出されているが、それらは創作文学であり、多仏や菩薩の実在を根拠づけるものではない。
- 仏讃文学の記述をもとに、釈迦の超人性や神格化がなされているが、それらは文学者たちの創作した“話”にすぎないことは明らかである。
- 大乗経典の語るところは、釈迦の教説と違っている。仏道修行者たちの探求結果である。どちらに中心を置いていいのか、判断に苦しむ。
- 仏教の根底に、一切衆生(いっさいしゅじょう)に仏性が宿るとの“悉有仏性(しつうぶっしょう)”の思想があるが、これは生命ないし生活動と人格性とを混同した考えではないのか。
- 報身仏とか、応身仏など、仏の三身説も、釈迦の教説から離れている。
- 法蔵比丘([ほうぞうびく]という人間)が超長期の修行をして法蔵菩薩になり、さらにこの法蔵菩薩が想像を絶するほどの超長期間を修行して阿弥陀仏(あみだぶつ)になったというが、これは奇蹟の問題でなく、思考の遊びのようであって、実際のことと考えられない。
- 阿弥陀仏の本願がどうして人を救うことになるのか。超長期に修行したからといって、そのような霊験・霊力がどうして生まれるのか、いささかの合理的理由もない。
- 仏教徒たる人間、仏教徒がなろうとする仏、菩薩、有名な仏の全てを“仏”という概念でひとくくりにするが、相互にあまりにも違いが大き過ぎて、無理がある。
- 菩薩は、仏になろうとして修行中の存在であるのに、どうして人を救う存在であり得るのか。無理な設定である。
- 仁王、不動明王、帝釈天(たいしゃくてん)、恵比須、大黒天、毘沙門天(びしゃもんてん)などの諸神は、本来の仏教の教説や修行、救済とは関係がない。これらは、仏教とは異質なものであるが、いつ、いかなる理由で、いかなる経緯で仏教に入ってきたのか分からない。どうして霊験あらたかになるのか、神通力を発揮できるのか、その説明もない。
- 菩薩も、上の諸神も庶民の現世御利益信仰に応えるとするが、それは本来、非仏教的である。
- 密教は、呪術的・秘儀的で、釈迦の教説に反する点が多い。そのシャクティ信仰は愛欲的な秘儀であって、淫教に近い。“即身成仏”の教理は(修行をしないでも仏になれるとするもので、)釈迦の仏教とは根本的に異なり、それは結局、現世御利益主義に落ちている。
- あまりにも安易に他の宗教と習合して、統一性・一貫性を欠いている。(例・・・盂蘭盆[うらぼん]供養、格義仏教、十王信仰、修験道、本地垂迹[ほんじすいじゃく])。これらは、寛容というよりは無節操である。
- 釈迦の教説、初期仏教、上座部仏教、大乗仏教、密教、専修念仏仏教、禅宗と、どんどん変遷を重ね、教理も実態も大きく違ってきた。
- 現代日本の各宗派も相互の間で、根本仏・根本経典・理想境地が次の通り、違っている。
根本仏・・・釈迦、大日如来、阿弥陀仏、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)、十一天得如来画像、久遠実成の釈迦仏、南無阿弥陀仏の名号。
根本経典・・阿含(あごん)経、法華経、大日教、浄土三部経、華厳(けごん)経、阿弥陀経、四分律蔵、成唯識論(じょうゆいしきろん)、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)。
理想境地・・涅槃(ねはん)、来世の果報、一隅を照らす者、即身成仏、極楽浄土、蓮華蔵浄土(れんげぞうじょうど)、即身是仏(そくしんぜぶつ)、釈迦の悟りの追体験など。 - 親鸞は神祗不拝(じんぎふはい)、葬礼・年忌法要の不要、道元は焼香・礼拝・読経の不要、日蓮は神祗不拝とした。各宗はそれらを無視し、儀礼をこととしている。信徒の神社参拝に何の指導もしない。寛容というより、教理無視、無節操である。
- 現代日本の仏教信仰は、死者儀礼と祖霊信仰(仏壇礼拝)である。釈迦の仏教と何と隔たってしまったことか。
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正木弥(まさき・や)
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
【正木弥著書】
『なにゆえキリストの道なのか 〜ぶしつけな240の質問に答える〜 増補版』
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)