仏教の全体像を知っているか。
8. 大乗諸仏、菩薩、諸神
初期大乗仏教でも、”過去七仏”、未来の”弥勒(みろく)仏”、仏讃文学でも“燃灯仏”の存在を主張したが、大乗仏教では更に進み、“毘盧遮那仏”(びるしゃなぶつ)、“大日如来”、“阿弥陀仏”、“薬師如来”、“阿閦仏”(あしゅくぶつ)など固有名詞の仏や如来が大乗経典で多数登場し、重大な役割を演ずる。
諸仏は、過去・現在・未来のほか、東西南北とその四隅それに上下の十方向にガンジスの河の砂の数ほど多数いるとされた。それぞれが一仏でありながら、全体としては多仏であり、汎仏ともいえる。
それぞれの仏は、超越的で神的な仏になり、神通力を発揮する。創造者ではなく、自然や社会に働き掛けはしない。帰依する人々を救済し、仏法の真理を教える存在である。
どの仏が根本で、どの仏が枝末(しまつ)なのかは経典により異なり、宗派により別々の主張がなされている。これが仏教を分かりにくいものにしている。また、仏教徒はどの程度悟れば“仏”になれるのか、それは誰が判定するのか、それも分からない。
仏身論として、弥勒(AD350~430年)により仏身三身論が立てられた。① 法身仏・・・法そのもの、真理そのもの。抽象的で、無人格的な仏。毘盧遮那仏がそれ。② 報身仏・・・菩薩が修行を積んで、その報いを受けている仏身。阿弥陀仏、薬師如来、阿閦仏がそれ。③ 応身仏・・・衆生の世界に対応して変化して姿を現した仏身。無常を免れず、入滅もある身である。
どの一仏にも他の二仏が含まれてあり、三身即一という。キリスト教の三位一体説に似ている面もあるが、サベリウス主義(3世紀にサベリウスが唱えた三位一体説から外れる異端とされた思想)に似ているといえよう。この三身論の結果、仏陀の神格化がなされ、カルマの法則を上から介入する可能性が生じた。しかし、釈迦中心的見方から聖職組織図的見方(マンダラ)へ移っている。
“菩薩”は仏になろうとして修行している段階の者、仏にそなわるべき德を着実に実践している姿である。仏伝文学で釈迦が仏になる以前の状態を釈迦菩薩と呼んだ。ほかに、阿弥陀仏の以前の法蔵菩薩、薬師菩薩などがいたとする。これらを仏伝の菩薩と呼ぶ。
これら菩薩は、人間が発身(はっしん)して修行中の身であるのに、いつの間にか神通力を発揮し、救済に当たるのだが、それが可能という説明はない。これらの菩薩が仏になるためにしてきた修行は何千億年、何兆年に及ぶという。あまりにも思考性や論理を超えている。
他方で、将来仏にならずに菩薩のままで衆生の救済に専念するという大乗菩薩も誕生した。例えば、“観音菩薩”、“地蔵菩薩”、“文殊菩薩”、“普賢菩薩”、“虚空菩薩”、“勢至菩薩”などである。いかなる事情で仏にならないのか、いかなる事情で神通力・救済力が生じるのか、その説明がない。とにかく、このような菩薩を重視するのが大乗仏教の大きな特徴である。
また、菩薩は、庶民の願いを何でも聞いてくれるという存在になってしまい、現世御利益信仰の中心になっている。悟りと修行の宗教として出発した釈迦の宗教とは、大いに変質してしまった。
諸神とは、仏道守護者で、例えば、不動明王、仁王、帝釈天(たいしゃくてん)、鬼子母神(きしもじん)、金毘羅大将(こんぴらだいしょう)、阿修羅(あしゅら)、七福神(大黒天・恵比須・毘沙門天[びしゃもんてん]など)、金剛力士(こんごうりきし)、達磨大師(だるまだいし)などである。これらの多くはインド古来の神々や仏道修行者であるが、庶民はこれらが仏教であるのかないのかに関心がない。ただ、御利益をかなえてくれるらしいとして信心している。
これらがいつ、いかなる経綸で仏教に混入してきたのか、どのような根拠があってこれを認めたのか、仏教界は問題にしない。教理の一貫性とか統一性とかにこだわらない。ただ、拝礼者が多ければ、教界の賑わいになれば、何でも取り入れるという体質なのか。
9. 密教
釈迦の教えは知的要素に満ち、釈迦は呪文・呪術・迷信・密語・密議の類を激しく批判し、排撃したが、ここへ来て、ヒンズー教や土着の習俗などが混入して、大乗経典に、真言(マントラ)や陀羅尼(ダラニ)が取り入れられ、大日如来の説法を名乗る密教が成立した。
開祖は龍猛(りゅうみょう、AD600年ごろ)。しかし、実在が定かでなく、AD670年ごろのインドラブーティが祖として尊崇されている。密教は、インド゙、中国では宗派的な体裁をとらなかったが、日本では真言宗として確立された。日本の大半の宗派は儀式面で何らかの密教的部分が混入している。
その特徴は、行において、呪術的、秘儀的であることだ。例えば、① 印契(いんげい・指を組み合わせる手印)、② 陀羅尼(ダラニ・呪句、呪文の類)、③ 真言(マントラ・神秘的な句や文)、④ 曼陀羅(マンダラ・聖衆として諸仏・諸菩薩・諸神を配置する“聖画”)、⑤ 加持(かじ)・祈祷(壇を築いて護摩(火)を焚くなど神秘的な作法を行いつつ、真言や陀羅尼を唱える、⑥ 潅頂(カンジョウ・報を伝え、縁を結ぶために、頭に水を注ぐ儀式)など。
シャクティ信仰をヒンズー教から取り入れて、左道密教となる。密教修行者にシャクティ信仰を伝授された女性の愛欲的抱合を勧める秘儀がある。仏教の本質から大きく逸脱したものである。
密教では、行は、無限の時間にわたるものではなく、現世において即時に可能となる、とする。これを“即身成仏”という。
密教経典には、文学・芸術・天文学・数学・薬学・医学・土木建築などの分野のことを含む。密教には、民衆の俗信、既存の文化を一切がっさい取り込まれた“人間文化教”的色彩がある。
10. 禅宗 現代では釈迦の宗教に一番近いといえようか。(略)
11. 宗教混淆
仏教は寛容な宗教だというが、寛容を越えて、無節操になる。たくさんの宗教混淆(シンクレアティズム)を生み出した。
① 中国で道教と混淆(こんこう)して閻魔(えんま)大王らの十王信仰(十王経)を生み出した。② 中国で、老荘思想と折衷して格義仏教となった。③ 中国で儒教・孝道思想と融合して「盂蘭盆(うらぼん)経」が書かれ、盂蘭盆会(お盆)の法要が行われるようになった。④ 日本で、山岳信仰と結合して、“修験道”が生まれた。⑤ 日本で、神道の神と妥協して、「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」を立てた。これは、神社の神を拝めば同時に仏を拝んだことになるというもの。信者はどちらを拝んでもいい、ということだ。無節操きわまりない。
12. 徳川時代の仏教
徳川幕府は“法度”(はっと)を定め、仏教を統制した。また、切支丹(きりしたん)禁制のため、仏教を利用し、仏教は協力した。宗旨人別帳、五人組制度、檀家制度、宗門改め、葬儀への仏僧立会制度などである。これらは、幕府の行政の下請けにもなった。僧侶は地位と生活を保証され、官僚化し、尊大になり、安逸に流れ、堕落する者も少なくなかった。これらが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の原因となった。
13. 現代日本の仏教
明治維新後、徐々に軍国主義に協力させられ、神社参拝などに何の抵抗も抗議もなく、問題意識も持たなかった。仏教徒も、侵略戦争の先で殺傷・凌辱(りょうじょく)・略奪などの先兵とされてしまった。仏教が日本人の人間性を陶冶(とうや)しておらず、慈しみと憐れみの存在へと変えるものにはなってないことが明らかになった。
現代仏教は、先祖礼拝・先祖供養に集中している。仏教の教えや経典の中身を教えようとせず、ただ、先祖供養と死者儀礼を執り行うだけである。
① 現代仏教の活動は、葬式など死者儀礼、② 彼岸会法要・お盆法要、③ 年忌法要、④ 観光対象の施設開放、⑤ 霊場巡り・寺院参詣を受ける、⑥ 墓地の管理、⑦ 各家庭で仏壇礼拝、⑧ 俗信的・迷信的なイベントの開催である。これらが仏教なのか。否!
信徒には、意味の分からぬ経を読むが、説明などはしない。現世御利益をアピールするだけで、仏教本来の救済を語らない。
◇
正木弥(まさき・や)
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
【正木弥著書】
『なにゆえキリストの道なのか 〜ぶしつけな240の質問に答える〜 増補版』
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)