思いもよらず、数えで80歳になった。受洗が20歳の時だったから、60年にわたって主の恵みにあずかっていることになる。クリスチャンホームを作ろうと青年会時代の信友と結婚、2人の子どもが与えられた。2人とも医師だが、長男は大学生の時、長女は高校生の時に救われ、何と5人の孫のうち、高校生の1人も救われ、文字通り主の恵みにあずかりっ放しである。
社会人生活、自営業時代を通じて、ほぼ欠かさず聖日礼拝にあずかり、聖餐にあずかり、溢れるばかりの感謝である。自らを省み、不信仰の故の失敗、不信仰の故に多くの方々に与えてしまった有形無形のつまずきを覚え、懺悔(ざんげ)の祈りを通して主の憐れみ、導きを願う日々である。母教会から始まって、転居に伴う転会は経験したが、長老、執事、役員、教会学校などでのご奉仕も良い経験だった。献金、奉仕、伝道命令への応えなど、手抜きをした実感はないが、足らざるを思う。頂く恵みの多さをただ思う。
病弱だった少年期も、青年期には健康も回復、社会人生活、自営業生活を通して健康に恵まれた。しかし60代後半から前立腺がんの全摘手術、胃がんの切除、大腸ポリープの切除・・・極め付きは、3年前の腎不全。医師である子どもたちの適切なセカンドオピニオンや友人医師のアドバイスも受けて平穏だが、いわば満身創痍(そうい)ではある。腎不全に対しては、家内の絶大なサポートで完璧に食事制限ができており、ありがたいことだ。従って、教会の聖日礼拝、祈祷会など、入院時以外は休まず通えてあらためて頂く恵みの多さを思う。一方、戦友の家内もこの2、3年狭心症で2本のステントを入れ、頸(けい)動脈の詰まりの除去、髄膜腫の切除など相次ぐ試練に見舞われたが、名医にも恵まれ、現在は小康状態となり感謝である。
思いもかけず、数年前に母校開成の救霊のための「ペン剣祈祷会」の存在を知った。超教派の開成OBによる祈祷会で、もっぱら教職のお宅を拝借して教職による奨励を頂いた後、参加者全員で母校を思い、そしてそれぞれの課題を祈り合う。同窓の諸兄と祈りを合わせることでこんなに励まされるとは! 主から頂く大いなる恵みである。
小4の夏8月6日、ヒロシマ郊外でピカドンを体験した。爆心地から12キロ地点だったが、登校日だったので帰宅途中に皮膚のただれたヒロシマからの被爆者たちに遭遇、その日から周囲ではヒロシマからやっと帰宅した人がバタバタと亡くなり、やけどの傷痕にうじ虫がはい回る光景に声も出なかった。放射線の知識もなく空気を吸い、飲食していたわけだが、その後70年も生かされた。これは生き残った者のミッションを意識せよとの御声とわきまえ、大学の友人6人と護憲のための有志の会を立ち上げた。メンバーの一人が爆心地付近で被爆しながら、奇跡的に生き残って核廃絶活動に頑張っていることもあって、護憲に加えて核廃絶にも思いを熱くしている。
小生の場合、思いはあってもデモに行くなど何か具体的なアクションはできないが、クリスチャンの特権で祈ることができる。カンパもできる。
理系の人間の一人として、原子力の平和利用はあり得ると原発推進の立場であった。地球温暖化防止の切り札だと思っていた。ところがフクシマである。安全神話にどっぷりつかっていたわけだ。ヒロシマの時は熱烈な軍国少年だった。その後の敗戦、そして中学で学んだ日本国憲法で「国民主権」「基本的人権」「平和主義」を骨格とした内容に衝撃を受けて、軍国少年は終わった。フクシマを知って、原発推進も終わった。想像力が大切だといわれる。信仰を与えられ、主の十字架と復活を信じ、救われた喜び、恵みにあずかりながら、原発の安全神話から抜け出せなかった。想像力の欠如を思わざるを得ない。
これから生かされる日々、どう生きるか? 聖日礼拝を中心に据え、祈り、ささげ、聖書を読み、主との垂直関係を第一に、再臨までの中間期の地上での水平関係も誠実に意識して、護憲、核廃絶、反原発への祈りを篤(あつ)くしたいと思う昨今である。
(文・土肥由長=日本基督教団吉祥寺教会員)