「長崎26殉教者記念像」や「原の城」「ダミアン神父」などの作品で、戦後日本を代表する彫刻家として知られる舟越保武(1912~2002)の彫刻展「舟越保武彫刻展―まなざしの向こうに」が、東京の練馬区立美術館で開催されている。同館の開館30周年を記念したこの彫刻展では、彫刻作品60点とドローイングや資料など約50点が展示されている。
舟越は1912年、岩手県二戸に生まれる。ロダンに憧れて彫刻を始め、東京美術学校(現東京芸術大学)に合格し、彫刻家の道を歩み始める。37年からは練馬のアトリエに移住、47年には長男・一馬が生まれるが、1歳にもならずに病死する。その死の影響から、50年のクリスマスイブに、盛岡のカトリック教会で家族全員と共に洗礼を受けた。58年、長崎市から依頼を受けて「長崎26殉教者記念像」の制作を開始し、62年に完成。高村光太郎賞を受賞し、彫刻家としての地歩を固めた。その後もキリスト教をテーマにした聖女像や代表作「原の城」(72年)、「ダミアン神父」(75年)などを制作した。1987年に脳梗塞に倒れ、右半身不随となるが、左手での制作を続けた。
2002年2月5日、89歳で死去。この日は奇しくも日本二十六聖人の記念日であり、「長崎26殉教者記念像」の前では、2千人以上が参加してミサが行われたという。
7月の終わり、同美術館を訪ねた。彫刻作品に刻まれた舟越の深いキリスト教信仰を静かにゆっくり味わうことができたのは、実に幸せな時間だった。
長崎26殉教者記念像(1962年)
会場でまず目に入ってくるのは、1596年に豊臣秀吉の命によって捕らえられ、京都から長崎に送られ処刑された26人の殉教者を記念して、長崎・西坂に作られた「長崎26殉教者記念像」だ。
胸の前で手を合わせ、目を上に向けた殉教者たちの中には、小さく口を開けている者もいる。死の瞬間まで祈りを唱えていたことが表現されているという。
手の習作(1959年)
「手の習作」と題された、木炭で描かれたスケッチには、殉教者たちの祈りが現れているようで胸を打たれる。
原の城(1971年)
代表作である「原の城」は、1637年に島原(長崎県)で起きたキリシタンによる一揆、島原の乱を主題としている。重い年貢やキリシタン迫害に対して、農民、漁師など約3万7千人が挙兵、原城に籠城。江戸幕府が派遣した九州諸藩の連合軍約12万と対峙したが、食糧が尽きた後、一揆軍は虐殺され全滅した。
甲冑(かっちゅう)をまとった農民兵の眼球のない両目は宙を見つめている。像の前に立つと、虐殺された名も無き兵士の無念さが伝わってくるようで、鬼気迫る迫力がある。しかし同時に、不思議な静けさを感じる。それはこの像が「戦う兵士」には全く見えないからだ。むしろ、絶望的な状況の中、追い詰められながらも神の前に立ち尽くし、祈りを唱えながら死んでいった信仰者のように見えるからだろうか。
ダミアン神父(1975年)
「ダミアン神父」は、ベルギー出身の修道士で、1863年にハワイのモロカイ島に派遣され、隔離されたハンセン病患者の施設に暮らし、自らもハンセン病に感染しながら看護と布教活動に身をささげ、49歳で亡くなったダミアン神父の全身像。端整だったといわれる顔に表れた病の様子が痛々しい。ダミアン神父の顔や手にいよいよ病の徴候が現れたとき、彼は初めて患者たちに向かって「われわれ癩(らい)患者は」と言うことができた、と喜んで語ったという。苦しむ人々に寄り添うことが願いだったダミアン神父は、病に自らも侵されたことで、本当の意味で隣人になることができたと考えていたという。
ただ私はこの病醜の顔に、恐ろしい程の気高い美しさが見えてならない。このことは私の心の中だけのことであって、人には美しく見える筈(はず)がない。それでも私は、これを作らずにはいられなかった。私はこの像が私の作ったものの中で、いちばん気に入っている。(舟越の文章から)
この日の午後は、高橋幸次氏(日本大学芸術学部教授)の講演も行われた。高橋氏によると、舟越はしばしば「彫刻家として石屋に学んだ」と語っていたという。欧州中世に教会堂や聖人像を作っていたのは名も無き石職人であり、その生き方に憧れていたという。「石を穿(うが)つように辛抱強くあれ」という言葉も残している。
高橋氏は、モデルを使うと雰囲気や表情に惑わされるとしてモデルを使わず、むしろ現実の向こう側にある理想と美を追求したのが舟越の創作姿勢だったと述べた。また、舟越の作品の特徴として、「静謐(せいひつ)でありながらも冷たくなく、今にも何かを語り掛けてきそうな表情とまなざしがあり、生命感がある」ことを挙げた。
聖書の中に登場する女性を作品にした舟越の聖女像は実に美しく、見惚れて吸い込まれそうになるほどだ。それでいて、芯の強さが感じられる。会場で発売されている図録には、次男で彫刻家の舟越桂氏のこんな文章がある。
制作中の父が最も心がけていたのは、立体としての強さや確かさ、空間に、あるいは空気圧に負けない形になっているか、囲んでいる空気圧を押し返す強さを内包しているか? そういう作業をつづけた後に、何が現れているかをチェックしていたのだと思う。
高橋氏は、聖女像には舟越の二人の母への思慕が込められているのではないかと言う。『舟越保武全随筆集 巨岩と花びら ほか』(求龍堂、2012年)によると、舟越は2歳で実母を亡くし、後妻に来た継母に育てられたという。その母は優しかったが子どもが生まれず、父が亡くなり、舟越が東京美学校に入学し東京に出ると、岩手の家に血縁のない孤独の中一人住み、ある年の真夜中、北上川の濁流に身を投げて亡くなったという。
聖ベロニカ(1986年)
エルサレムの敬虔な女性ベロニカは、十字架を背負ってゴルゴダの丘へと歩くイエスを憐(あわ)れみ、勇気を出して進み出て、イエスに額の汗を拭くように身に付けていたベールを差し出す。イエスが汗を拭ってベールを返すと、そこにイエスの顔が浮かび上がっていた。このような伝承がある。
長崎産の諫早石(砂岩)で作られたという「聖ベロニカ」は、十字架を背負い、目の前で苦難の道を歩むイエスに向けられたベロニカの眼差しを肌で感じさせる。
マグダラ(1990年)
そして最大の見所は、最晩年に作られた作品群だ。脳梗塞に倒れて右半身不随となり、その後は左手でノミを振るった舟越が作った「マグダラ」は、ひどく荒々しい彫りの作品。「長崎26殉教者記念像」や他の聖女像のような端整で静謐な美しさはまるで消えている。しかし、不自由な左手で作り上げたその表情からは、聖書に「七つの悪霊」が取りついていたと書かれているマグダラのマリアの苦しみと、救いを求めるうめきが聞こえてくるような気がする。それは、病に倒れた舟越自身の心の叫びなのかもしれない。
高橋氏によると、同時代の彫刻家で、東京美術学校では舟越の3期先輩であった柳原義達(1910〜2004)は、舟越について次のように述べている。
孤独、これが芸術家の歩かなければならない道である。その孤独に舟越は生きたのだ。それは、聖マリアを通してキリスト教徒として人間の生き様であった。ただひとりのクリスチャンとしての生き様は、聖マリアの宗教的美の表現という姿となり、そこに孤独があり、舟越がある。・・・大理石のなかに彼は左手でノミを入れて、この石の中に彼の人生を刻んでいる。
西武線・練馬駅から徒歩3分の練馬区立美術館は、駅前とは思えない緑溢れる気持ちのいい美術館だ。
まだ暑い日が続くが、少し足を伸ばして、日本を代表する彫刻家・舟越保武のキリスト教美術の最高傑作たちに会いに行かれてはいかがだろう。この夏の貴重な体験となることをお約束する。
■ 練馬区立美術館「舟越保武彫刻展―まなざしの向こうに」(9月6日まで)