東京・銀座の老舗書店として親しまれている教文館は、今年で創業130周年を迎える。その記念展が今月、教文館ギャラリーステラで開かれている。関東大震災、太平洋戦争と、度重なる試練をくぐり抜け現在に至るまでの教文館の歩みと、銀座の街の移り変わりを、貴重な資料や写真から知ることができる。入場無料。31日(月)まで。
1885年、米国メソジスト監督教会から横浜に派遣された宣教師たちが、伝道用の書籍やトラクトを販売し、出版活動をするための組織を作ったのが、教文館の始まり。1891年には、銀座に書店を開店した。記念展では、「教文館」という名称になる前の「メソヂスト出版舎」の記録から現在までを6つの年代に分けて紹介している。
明治時代(1873〜1912)では、1895年に撮影された教文館最古の写真が展示されており、それを見ると当時の店名が「メソヂスト出版舎」であったことが分かる。その翌年には日本名を現在の「教文館」に改め、1898年ごろに撮られた写真では看板名は「教文舘」となっている。1906年には、現在の場所に礼拝堂を備えた4階建ての瀟洒(しょうしゃ)な社屋とその裏に印刷所を建設。レンガ造りの表面をセメントで塗られた社屋は絵葉書にもなり、銀座の風物詩になったという。
大正時代(1912〜26)なると、経営上の問題が浮上するが、それをきっかけに一つのロマンスも生まれる。資金不足を解消するために、印刷所を聖書の印刷を一手に引き受けていた福音印刷に売却することになるが、このことが、村岡花子と村岡儆三(けいぞう)を結び付けることになったという。村岡花子は当時、後に教文館に合併する日本基督教興文協会で働いており、同協会からデビュー作『爐邉(ろへん)』も出版している。この発売元は教文館で、印刷は福音印刷だった。福音印刷の社長の息子が村岡儆三で、こうした関係から二人の出会いがあったという。
戦前の昭和時代(1926〜36)では、1923年に起きた関東大震災で焼失した教文館と日本基督教興文協会が合併し、1933年にアントニン・レーモンド(1888〜1976)の設計による現在の9階建ての共同ビルを完成させた。ビル再建には、米南メソジスト教会宣教師でもあるサミュエル・ウェンライト博士が米国に献金を募り、関係各機関と調整したことが説明されている。
戦中(1937〜45)、出版統制などに遭いながらも、売り場で聖書展や賛美歌展を開催するなど営業を続けていたことが写真で紹介される。戦後(1945〜89)は、米国の雑誌であるタイム、ライフの両誌の独占販売権を入手し、好調な滑り出しだったという。この時の様子は、長蛇の列を作って雑誌を買い求める人々の写真からうかがえる。その後、経営危機などに遭いながらも、1963年には『キリスト教大辞典』、1989年には『旧約新約聖書大事典』などを出版する。
出版業界全体が冬の時代を迎えた平成時代(1989〜2015)、ビル内に「エインカレム」や「ナルニア国」という特色のある売り場を創設し、「ウェンライトホール(多目的催事場)」を作るなどして、他の書店にはない特色を打ち出すことに成功した。2005年から社長を引き継いだ渡部満氏は、130周年を記念して小冊子『教文館ものがたり』を執筆し、その中で「教文館は、これまで福音が日本で確かな実を結ぶための働きの一つを担い続けてきたし、これからもその使命を担い続けていきたい」と述べている。
記念展に訪れた70代の女性は「子どもの頃、父親に連れられてよく来ていたので、懐かしく思い寄ってみた」と話した。また、夫婦で立ち寄ったという女性は「教文館には絵本を買いによく来るが、この建物の古い歴史を知って驚いた。貴重な資料を身近で見ることができよかった」と語った。
会期中は無休。時間は午前10時~午後8時(日曜日のみ午後1時~8時)。会場は教文館3階ギャラリーステラ。詳細はホームページで。