日本ナザレン神学校の公開講座「村岡花子の生涯と信仰」が10日、日本ナザレン教団目黒教会(東京都目黒区)で開催された。「これからはじまるあなたの物語・・・」。今年4月から9月まで放送されたNHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」のテーマ曲で幕を開けた公開講座。山梨英和大学在学時に村岡花子さんを研究した精神対話士の金澤佳子さんを講師に迎え、約1時間半にわたって行われた。
日本基督教団甲府教会の信徒であり、現在は心に痛みを持つ人と対話をすることで精神的な支援を行う精神対話士として活躍する金澤さん。子育てを終えてから、山梨英和大学に入学した。当時同大学の教壇に立っていた日本ナザレン神学校の坂本誠校長の講義を受講。在学中に受洗の恵みにあずかり、山梨にゆかりが深く、キリスト者でもあった村岡花子さんを研究し、修士論文を発表した。
当時はまだ「花子とアン」が放送される話もなく、関係者や関係する団体・機関への調査、取材を重ねた。その中で、孫の村岡恵理さんとも何度となく話をしたという。恵理さんとの出会いを、「初めて会った気がしなかった。恵理さんも『児童文学研究の一端として、村岡花子を取り上げてくれる人は何人かいたけれども、村岡花子そのものを研究してくださる方は、あなたが初めてです。とても嬉しい』と言ってくださいました」と振り返る。
この日の聴講者は、神学生や牧師の他、一般信徒の女性も多かった。「ドラマでは、『こぴっと』という言葉が多く使われていたが、現在の甲府では、あまり聞いたことがなかった。しかし、ドラマの放送後、甲府でも多く使われるようになったと思う」と話すと、会場からは笑い声が上がるとともに、大きくうなずく人の姿もあった。
ドラマでは、農家の貧しい家で育ったと描かれていた花子であったが、実際は現在の甲府駅近くに住んでいたという。また、ドラマでは3人兄弟であったが、実際は8人兄弟。花子の父親が熱心なクリスチャンであった。花子は幼児洗礼を、金澤さんと同じ日本基督教団甲府教会で受けている。父親はあまり働かず、母親は現実主義的な女性。「私の推測ですが、あまり平和な家庭ではなかったようですね。花子は、そんな生活の中で現実逃避するように本にのめり込んでいったようです」と金澤さんは言う。
花子が5歳のころ、一家で現在の品川辺りに引越し、10歳になると東洋英和女学校に給費生として入学した。多くの人の援助によって学生生活を送ることになるが、それは花子にとって決して楽しいものではなかった。きらびやかなお嬢様たちの多い女学校で、貧乏生活を送っていた花子は、作法も知らず、言葉も知らず、大変な苦労をした。しかし、花子には帰る家がない。必死に英語を勉強し、英語に没頭することで自分の居場所を作っていった。辛く苦しい学校生活であったが、当時のイザベラ・ブラックモア校長に、卒業時の餞(はなむけ)の言葉として、「若い時代は準備期間。最上のものは過去にあるのではなく、未来にある」と声を掛けてもらい、泣きながらこの言葉を喜んだという。
卒業後、山梨英和女学校で教師として勤務。山梨名物のほうとうの味を、訪問した生徒の家で覚えたという花子。教師時代は、生徒からも好かれる花子であったが、「ものを書く」仕事への夢を忘れられず、上京。その後、夫となる村岡敬三と出会った。
当時、敬三には妻子がいたが、ドラマで描かれていた通り、妻は重い病にかかっていた。ドラマでは、その後敬三の妻は亡くなり、花子と結婚したことになっているが、実際は離婚し前妻が実家に帰った後、まだ生存中に再婚したようだ。出会ってから半年で結婚をすることになるが、その間、二人が交わした恋文は、きれいな箱に納められ、保管されていたという。「孫の恵理さんがおっしゃるには、それはそれは熱烈なラブレターで、『読んでいる方が赤面するほどだった』そうですよ」と金澤さんは言う。
花子は結婚、そして男の子を出産。幸せの絶頂にいたかと思われたが、1923年9月1日に起きた関東大震災で、夫の会社の全てを失うことになる。そのちょうど1年後、今度は最愛の息子道雄くんが疫痢(えきり)のため、たった一晩で体調が急変。天へと召されていった。花子は、「なぜ私は神様を信じ、神様に向かって生きてきたのに、どうしてこんな試練をお与えになるのでしょう?」と問い続けたが、聖書を手にして御言葉にはっとする。「生きた言葉を目にして、少しずつ立ち直っていったのでしょうね」と金澤さんは話す。
歌人、作家としても生きたいと考えていた花子だが、「翻訳は、神様から私に与えられたもの」と、翻訳の道を突き進んでいく。「一児の母だった自分だが、今度は日本中の子どもたちの母になろう」と決心するのだった。
第二次世界大戦を前に、祖国に帰国するある一人の宣教師に託された本が『赤毛のアン』の原書となった本だった。「いつかまた日本にも平和が訪れます。その時が来たら、この本を日本中の少女たちのために翻訳して世に出してください」という言葉の通り、花子は戦時中もこの本の翻訳に没頭した。しかし、敵国の言葉とされていた英語を話すことは、周りからの誤解を招くことにもなり、家に石を投げられたこともあったという。金澤さんは、「山梨英和の『英』の字も『栄』という字に変えられたほど、当時は厳しかったようですね」とエピソードを明かした。
戦後7年は、『赤毛のアン』が出版されることはなかったが、花子が59歳のとき出版され、大ヒットとなった。花子は75歳で召天。恵理さんは「祖母は愛のある人です。今も私はおばあちゃんの愛を感じている。それは温泉のような愛なのです」と金澤さんに話したという
それは、まさにキリストの愛に似た愛だったのではないか。翻訳者として、日本の子どもたちの母として、そしてキリスト者として生きた村岡花子。ドラマでは多く語られなかった彼女のキリスト者としての生き方。現代を生きる私たちと同じように苦悩しながらも、生きた聖書の言葉に救われ、平安を得ていたのだ。