東洋英和女学院(東京都港区)は14日、村岡花子の孫にあたる村岡美枝氏を講師に招き、特別講座「村岡花子と児童文学」を開催した。会場には抽選に当選した100人が集まり、NHKの朝のドラマ「花子とアン」を見てファンになったという人々で賑わった。
祖母・村岡花子から翻訳の事業を受け継いだ美枝氏は、講演の初めに「皆さん、ごきげんよう」とあいさつ。「毎朝のドラマで美輪明宏さんの台詞でお馴染みですが、私は板に付いておりません」と言って、会場の笑いを誘った。
美枝氏は、自身が幼少のころの村岡花子との思い出から始め、「とても忙しい方だっただろうと今では思いますが、何も分からない当時の私に優しくお話を聞かせてくれる祖母でした」と振り返った。花子の父・安中逸平とカナダ人宣教師との縁や、その宣教師たちが創設した東洋英和女学院に花子が通うようになった経緯、またそのときに出会った人々との話を中心に、美枝氏は村岡花子の生涯を紹介していった。
幼少のころから万葉集など、短歌に触れて育った村岡花子。伝道活動に熱心で、「男女が均等に教育を受けられる世の中にしたい」というビジョンを持っていた父・逸平や家族の協力もあり、花子は現在でいう奨学生として東洋英和女学院に入学した。しかし、当時は女性に教育を施すのは一般的ではなく、上流階級の女性たちの中に一人放り込まれた孤独感や、一家を背負っているという悲壮感が花子を文学にのめり込ませたと、美枝氏は紹介した。この時、花子は運命の出会いを果たす。
「花子とアン」でも、花子と柳原白蓮との出会い、またその友情はクローズアップされたが、美枝氏は「彼女以外にもこの人はドラマに登場してほしかったので残念」と言い、片山広子を紹介する。
片山広子は佐佐木信綱に師事して歌人として活動した人物。先輩として、文学者として公私にわたって花子を励ました人物だという。花子が長男を病気で失ったときも、「あなたの母性を世の中の子どもたちに届けてあげて」と励まし、児童文学家としての村岡花子を復活させた人とも言われている。
その他にも、カナダ人宣教師のロレッタ・レナード・ショーについても、「『赤毛のアン』を祖母に渡した張本人」として紹介。戦時中、疎遠になってしまうが、彼女との友情と村岡花子のビジョンが、あの「不屈の名作」を世に送り出したのだという。当時の文壇は大人向けのどろどろした人間模様が描かれたものが多く、花子は女性や児童向けの書物の少なさに課題を見つけた。そして、健康的で普遍的な物語を、受け手を意識して発信した。こうした発信は、翻訳や本の執筆に留まらず、ラジオの子ども向け番組のスピーカーとしての活動にまで広がったという。
そんな村岡花子を育てた、東洋英和女学院の校長ブラックモア先生の言葉として、「最上のものは過去にはない。人生という旅の最後の瞬間まで希望と理想を持ち続けて進みなさい」という台詞も交え、「晩年祖母は『女性が書くものには愛が詰まっているのよ』と言っていた。彼女の人格は、これら東洋英和の宣教師たちが蒔いた種が実を結んだものではないか」と話し、講演を終えた。