日本のカフェブームの到来は、1980年代といわれている。それ以前の60、70年代は、カフェではなく「喫茶店」が大流行していた。決して裕福とはいえない若者たちが、ジャズ喫茶、歌声喫茶など、思い思いの喫茶店に座り込み、何時間も過ごしていた。「カフェという呼び名が喫茶店に取って代わって、時代が変わったように見えても、そこにやってくる人間は変わりません。いつの時代も、人間の弱さ、罪の意識、心の中にある寂しさは同じだと思います」。そう語るのは、50年以上にわたって喫茶店伝道に仕えてきた、まさに日本の喫茶店伝道の祖といえる2人の婦人だ。
今年で来日してちょうど60年になるバーニ・マーシュ牧師は、米国のアラバマ州出身。マーシュ牧師の姉も宣教師として日本に滞在していたが、そのバイブルクラスで救われたという、クリスチャン歴59年になる川島輝子牧師と共に、二人三脚で日本全国を飛び回ってきた。
大学院卒業後に来日したマーシュ牧師は、8年間、共立女子聖書学院で神学生に聖書を教えていたが、次第にノンクリスチャンに向けた直接伝道への奉仕を願うようになった。一方の川島牧師は、同学院卒業後、農村伝道の働きに就いていた。それまで歩んできた道は違ったが、「若者に向けた伝道」という思いが一致し、共に働きをするようになったという。
まずは具体的な方法も決めないままに、毎週、横浜・野毛の街に出て行ってトラクトを配った。だが、いわゆる赤線区域と呼ばれていたこの街では、昼間出歩く人はほとんどおらず、「神様、この地でのトラクト配りは意味がないみたいです。今日で終わりにします」という状態に陥ってしまった。その最後の日に、ある人が声を掛けてきた。「私の店に来ませんか」。そんな時間はないのに、としぶしぶ向かった先は「タンゴ喫茶」。しかし、ただの喫茶店ではなく、店内に日曜学校で使われる聖画が掛けられていた。トラクトを配る2人を以前から見掛けていた台湾出身のクリスチャン、朱家語(シュカゴ)さんが、「自分の店を伝道のために用いたい」と相談を持ち掛けるために声を掛けたのだった。
こうして元祖・福音喫茶として、1963年に再スタートを切った喫茶店が、今でも50年以上続いているあの「福音喫茶メリー」だった。こうして、日本における喫茶店伝道は、台湾人・米国人・日本人の出会いによって誕生したのだった。その後、福音喫茶メリーは周囲の教会の協力を得て、福音を宣べ伝える場所として一人歩きできるようになった。
新しい開拓地を求めて、2人は東京に進出する。若者が多い場所はどこだろうかと考え、次の舞台を新宿・歌舞伎町に決定した。駅前で平然とシンナーを吸う若者たちやヒッピーの群衆を見て驚愕したが、振り出しに戻って、毎週トラクトを配りに出掛けた。すると、顔見知りになった一人のサンドイッチマンが声を掛けてきた。「こんな大勢の人の中で、そんな紙を配ってもらちがあかない!」 そう言ってある喫茶店に連れて行ってくれた。そしてなんと、オーナーに掛け合い、週に一回集会を開くことを許可してもらったのだ。
マーシュ牧師は、著書『大通りに出て行って-喫茶店伝道の原則と体験』(1977年)の中で、この出会いを「福音を一般の喫茶店にもたらすという日本特有のニード(必要)と条件に合った神様の計画」だったと書いている。横浜で福音喫茶メリーが始まったのと同じ時期、世界各地でも喫茶店伝道が起こった。だが当時、キリスト教とは無関係の店で福音を語るというのは、マーシュ牧師の知る限り他に例がなかったという。
集会は、クリスチャンばかりが集まるときには、共に祈ってから外に伝道に出ていくというスタイルで、ノンクリスチャンが多い場合には、賛美をしてから、救いについてショートメッセージで語り、スモールグループに分かれて個人的に話すカウンセリングの時間を設けた。喫茶店に置いてある音楽機材は、ギターやドラム。当時の教会では不謹慎とさえ考えられていたような楽器を用いて、賛美をしたという。
初回から100人以上が集まり、喫茶店は満員。店の名前は「ニューゴールド」といったが、まさに若者たちにとって、この伝道集会は新しい宝物を見つけた心地だった。3カ月後にニューゴールドは閉店してしまうが、その後も、「みやこ」「夢殿」「シオン」と、神に導かれるままに場所を変えながら、マーシュ牧師と川島牧師は8年間、新宿で喫茶店伝道を展開した。
8年の間に、160にも上る各地の教会から助け手が送られ、2人も長野や新潟に講師として遣わされた。集会でメッセージを語る若き日の大川従道牧師(現・大和カルバリーチャペル牧師)の写真も残されている。横浜の地で産声を上げた喫茶店伝道は、新宿の地で大きく成長したのだ。だが、2人の進むべき新しい開拓地は、まだたくさんあった。新宿での喫茶店伝道は、同地で教会を建てることを願っていた稲福エルマ牧師(現・新宿シャローム教会牧師)に受け継がれ、2人は京都を目指した。
「そういう伝道をしたかった」と呼び寄せてくれた知り合いの牧師を頼り、京都で場所探しを始めた。大学生の通りが多い三条通りの喫茶店を回ったが、何の収穫も得られなかった日の帰り、バス停からふとアーケードを見上げると、「純喫茶 凱旋門」という看板が出ているのが目に留まった。早速、次の日に交渉へ行くと、2人は強い既視感に襲われた。「夢殿にそっくり」。なんとかつて新宿で集会を行っていた喫茶店と同じオーナーだったのだ。「東京の常連さんだったなら断るわけにはいかない」と、京都でも場所を貸してくれることになったのだ。若者が多い街というだけで選んだ地だったが、確かに神が道を開いているのだと確信する出来事だった。
凱旋門での5年間の喫茶店伝道を経て、それまでの各教会へ紹介する超教派的な働きから、教会を建て上げる働きへと方向性を変える。喫茶店を借りるのではなく、一棟ビルを借り切り、1階でカフェを経営しつつ、教会を導いてきた。現在、その京都クリスチャン・フェローシップ・センター(京都市左京区)は、元喫茶店スタッフだった相馬浩牧師が後を継いでいる。
2人とも親族が静岡に住んでいたことから、京都の次は浜松で教会開拓を進め、マーシュ牧師の姪(めい)が開いていた家庭集会を土台にして、浜松クリスチャンセンター(静岡県浜松市)を建て上げた。現在は、姪夫妻である川崎秀陽・グロリア夫妻が牧師を務めている。
そして、昨年4月、桜台恵み平安キリスト教会(東京都練馬区)の牧師として、2人は東京に戻ってきた。長年の喫茶店伝道・牧会の中で、若者に向けた伝道における音楽・賛美の重要性を体験してきた2人は、以前から協力していたミクタムレコード&ミニストリー、ユーオーディア・アンサンブルの働きに貢献できればと願い、聖書から賛美について学ぶ「賛美と礼拝」を指導している。
これまでの半世紀以上にわたる2人の歩みを振り返り、「私たちは神様の計画にただ敏感に反応し、歩んできました。失敗も多かったけれども、自分たちでこうしようと思ったことはなく、全て神様に導かれてきた結果です」と川島牧師は話す。
本紙でも、福音喫茶メリーを含め、これまでいくつかのクリスチャンカフェを取り上げてきた。現在もさまざまなスタイルのクリスチャンカフェが用いられていることを伝えると、「時代が変わっても、必ず次の世代へのつなぎがあるのね。神様は時代の動きをよく見ておられて、その時代に合った伝道の方法を私たちに示してくださるのね」と、2人は嬉しそうに話してくれた。
いつの時代も、単に食事をするためだけでなく、勉強や仕事をする場所、友人と語り合い、くつろぐ居場所が人々には必要とされている。神との出会い、心の本当の安らぎを与えることのできるクリスチャンカフェが果たす役割はこれからも大きい。