教皇フランシスコは22日、教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿との会談で、聖人・福者などに関する文書を承認した。その中で、「蟻の町のマリア」と呼ばれた、神のしもべ・北原怜子(さとこ)(1929〜58)が「尊者」と認められたと、列聖省が翌23日に発表した。列聖省が、聖人の列に加えることを最終目的とする調査の開始を宣言すると、その人物は「神のしもべ」と呼ばれる。そして、さまざまな調査によってその人物の生涯が英雄的、福音的な生き方であったことが公認されると、次の段階として、「尊者」という敬称が付けられる。
戦後、東京・浅草の隅田川の言問橋(ことといばし)ほとりに、「蟻の会」という労働生活協同体が誕生した。ホームレスの人々がバタヤと呼ばれる廃品回収業を営み、結束して人間らしい生活を勝ち得るための会であった。蟻の会が経営する、集めてきた鉄くずなどを分別するための仕切場を中心とする一帯が「蟻の町」であり、そこで献身的な働きをしたのが、北原怜子だった。
東京・杉並区生まれの怜子は、品の良い住宅地にある「お花屋敷」と呼ばれる立派な邸宅で、大学教授の娘らしく、数々の習い事をたしなみつつ育てられた。桜蔭女学校へ入学し、正真正銘のお嬢様として成長するが、戦争を経て、自身の将来を考えた怜子は、手に職を持とうと薬学専門学校に進む。怜子がカトリック信者になるのは、20歳のときで、遊びに行った横浜の教会の雰囲気に心惹かれたこと、妹の通うミッション・スクールでの聖書の学びがきっかけだったという。
洗礼を受けてから、怜子はずっと「何か世の中に貢献することをしたい」と願い続けていたが、そんな怜子の人生を決定的に変えたのは、ある一人の人物との出会い。白いひげを生やし、「ゼノ神父」と親しまれたポーランドの修道士、ゼノ・ゼブロフスキーだ。蟻の町で救援活動をしていたゼノ修道士に、クリスマス会の手伝いをしてほしいと頼まれたことから、怜子もその働きに身を投じていくことになる。
「バタヤの子」とさげすまれる蟻の町の子どもたちを預かり、おやつを与え、入浴させ、勉強を教える。子どもたちの夏休みの課題をするために、海や山に行く必要を感じたときには、自ら鉄くずを拾い集めてお金を稼いだ。「怜子先生、怜子先生」と慕う子どもたちを見て、クリスチャンなど偽善者だ、とかたくなだった周囲の大人たちの心も変わっていったという。
怜子の洗礼名は「エリザベット」、堅信名は「マリア」。当時から「蟻の町のマリア」という見出しが付けられて報道されるほどに、その働きは有名になっていた。しかし、怜子は結核にかかる。静養のために、空気のきれいな土地と東京を行ったり来たりする生活を余儀なくされる中で、子どもたちの世話を引き継ぐ後任者も見つかり、怜子は修道院に入ることにするが、それも許されないほどに体調が悪化してしまう。
怜子を慕う多くの人々の提案で、怜子は28歳という若さでこの世を去る最後の瞬間まで、蟻の町で生きることになった。用意された専用の部屋で、蟻の会の事務仕事をしつつ、もっぱら祈りに専念する生活を送った。
病の床にあっても、怜子は蟻の町のために働き、祈り続け、多くの人々の助けとなった。怜子が作成した「くずを生かす」というパンフレットは、廃品回収をする上での役に立つ資料として大いに用いられた。その著作『蟻の街の子どもたち』は、東京都の役人の心を動かし、蟻の町が直面した立ち退き問題という危機を乗り越えさせた。
怜子の蟻の町での働きに関しては、数々の逸話が残され、「奇跡だ」といわれるエピソードもある。しかし、何よりも人々の心に残っているのは、怜子のほほえみ、人々の疲れをとりのぞき喜びを与えるような、その笑顔だったという。怜子の働きを間近で見続けていた蟻の町の指導者・松居桃楼(1910〜94)は、「一緒に暮らした8年の間、怒った顔を見たことがない」と語っている。
事実、お嬢様だった怜子の人柄に触れた、ホームレスやヤクザあがりの人々が、「ヤクザが兄弟分のために命を捨てるみたいに、キリストは人間に生命を投げ出した。だったら、俺もキリストの<杯>をもらおう。そうだ、そうしよう。キリストの杯、つまり洗礼だ!」と、数多く救いに導かれたことが、一番の奇跡と呼んでも過言ではないだろう。
怜子の列聖運動は、現在、ゼノ修道士の所属していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会によって進められている。蟻の町は後に、当時の地名で枝川と呼ばれた埋立地に移転した。現在の江東区潮見に当たる。カトリック潮見教会の会堂には「蟻の町のマリア」という名前が付けられている。