正木弥
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
クリスマス(キリスト降誕記念祭)の日付については、3世紀初めアレキサンドリアのクレメンスが5月20日を推定し、この日を中心に4世紀後半以降、毎年祝われるようになりました。
エッセネ派とは、中間時代(旧約聖書の終わりの頃からキリストまでの間の時代)でサドカイ派、パリサイ派に次ぐ第3の宗教勢力でした。しかし、その詳細はなお謎の部分があります。
キリストは、2千年前に単に生きた人ではありません。キリストは人類の救いのために(2千年前、この地上に来て)死に、そして復活しました。キリストはその後、天に昇られ、今は神の右におられ、全世界の歴史を導き、一人一人の人生を見ておられます。
イエス・キリストは人の罪を背負って死ぬために、死ぬことができるよう、人間の体を持って生まれてきました。しかし、単なる人間でなく裏に神がついている方でしたから、その神性の故に復活させられたのです。キリストの復活は、キリストの神性の証拠です。
「信じる」とは、自分の罪がキリストの十字架刑において代わりに罰されたということを信じ、受け入れることです。自分が受けるべき罰をキリストが代わって受けてくださった、ということを認め、信じ、感謝することです。
十字架刑は、ローマ帝国下の非ローマ市民に対する死刑のやり方で、残虐なものでした。これはキリストだけでなく、多く実施されていたもので、現にイエスの両横に犯罪人が十字架刑にかけられていました。
その通り、逃げられました。しかしそれでは、人は自分の罪について罰を受けて滅びなければなりません。このような人間存在を憐(あわれ)んで、神は愛である故に逃げずに、十字架刑を受ける道を選び取ってくださったのです。
キリストは単に殺されたのではありません。殺されるような道をわざわざ選んで行って、そして予期した通り殺されたのです。それは、旧約聖書の中に預言されていた通りでした。
「神」とは、三位一体の神を指しています。時には、その第一位格である父なる神を指している場合もあります。これに対してキリストとは、「救い主」の意味ですが、歴史上かつて1度だけ、父なる神から離れてこの地上に来られた「子なる神」を意味します。
このことは、4つの福音書に詳しく記述されています。その事実を土台として、弟子たちがイエスの十字架の死と復活のことを宣べ伝え、そのことが新約聖書「使徒の働き(使徒言行録)」の中で、さらには、弟子たちによる「書簡」の中で誠実に記述されています。
自分の栄光を求めていくと、往々にして、隣人への愛がおろそかになり、競合するものをねたみ、自分に悪評する者を憎むようになります。悪い評価はそれが正しくてもあからさまにすることを嫌い、時には競争者の失敗・不運を喜び願うようになりがちです。
聖書で、性は大切なもの、良いものとして取り扱われています。創世記1章22節に「生めよ。ふえよ。・・・」とありますが、生み、ふえるためには、性とそれに続く出産が不可欠ですから、それが大切に扱われねばならないことになります。
神が、人の死まで何もしないのは、その人が悔い改めて神に立ち返る可能性を見て辛抱強く待ってくれているからです。逆にいえば、死後は必ずさばいて精算されるのです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル書9:27)
前に述べたように、神は人をご自分に似せて自由意思を持つ存在としてお造りになりました。自由意思であれば、神の言葉に背くことも従うこともできたわけです。その“背く”ことが罪や悪の初めであり、土台であるわけです。
「罪を犯したなら必ずさばかれて、必ず滅びる」というのであれば、そういう議論も成り立つかもしれません。しかし、その前提に問題があります。人が罪を犯した場合でも、神は、人が救われる道を用意してくださったのです。
既述のとおり、人はみな罪人です。行いとなって表に現れるかどうかは別として、少なくとも内心は罪に満ちております。他者がそれに気付くかどうかは別として、内心は罪で溢れています。あなたも私も、彼も彼女も同じです。
原罪とは、人類の始祖(アダムとエバ)が犯した罪が、子孫であるすべての人間に及んでいるとの教理です。その聖書上の根拠は、ローマ人への手紙5:12ですが、簡単明瞭というわけではありません。
私たち人類はそろいもそろって罪人であるという現実があります。情けないほどに罪にとらわれてしまいます。そして、その罪が人を不幸にしております。どうしてそうなったのか。
赤ちゃんに意図的罪はなさそうです。しかし、わがままであることは事実です。お腹がすけば、ところかまわず泣き叫びますし、隣の赤ちゃんが持っている物を強引に取りにいきます。エゴの丸出しです。
もしあなたが言動や態度において仮に完全であったとしても、自分の造り主であり、親ともいうべき方である神を認めないなら、あるいは無視しているなら、(人はいざ知らず)神はその人は罪人だとされるのです。