福音書を読むと、イエスは人間そのもののように見える。神なのか。
上の図を見てください。左上の「神」の一部である方(子である神) が、本体(父なる神)から離れて、小さく、小さくなられて、乙女マリヤの胎にまで入られ、その(人間の)卵子と一体化して、人間の体を形成し、十月十日たって、人間の赤ちゃんとして生まれ、イエスと名づけられ、そして成長しました。
このイエスは、100パーセントの人間と100パーセントの神が合体した方であり、いわば200パーセントの存在でした。この方のうちで、人間としての部分と神としての部分が、「混合することなく、合成することなく、分離することなく、分割することなく」、1つに合体していました(キリストの二性一人格)。この方のうちで神としての意思と人としての意思がありましたが、人としての意思はいつも神としての意思に従属していました。
2千年前、地上のイエスに出会った人々は人間でしたから、視覚の上でイエスのうちに神である部分を見分けることはできませんでした。従って、そのような人々は、頭や手や足などイエスの中の人間の肉体の部分がまず目に映ったわけです。イエスは人間の姿をされ、歩き、座り、横になり、疲れ、空腹や苦しみを覚え、人間の言葉を話し、時に憤りを覚え、喜びをも示されました。福音書を読んでこれらの点の印象が強く残った方は、設問のような疑問を持たれるわけです。
しかし一方で、イエスは奇跡によって、死人をよみがえらせ、多くの人の病いを癒やし、生まれつき目が見えない人を見えるようにし、足がなえている人を立たせ、耳が聞こえず話せない人の耳が聞こえるようにしました。水の上を歩き、嵐をしずめ、多くの人の心を読み取り、心の中の思いを非難されました。これらは、人間にはできないことです。こんな奇しいこと、こんな不思議なことをこんなにたくさんされたのは、イエスの中に神としての部分がおられたからです。この部分も正しく認めねばなりません。
イエス・キリストは人の罪を背負って死ぬために、死ぬことができるよう、人間の体を持って生まれてきました。しかし、単なる人間でなく裏に神がついている方でしたから、その神性の故に復活させられたのです。キリストの復活は、キリストの神性の証拠です。
イエス・キリストは、人であり、神である方でした。
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