キリストが十字架で死んだ事実は分かる。しかし、なぜ、それを信じなければ罪が赦(ゆる)されないのか。
「信じる」とは、自分の罪がキリストの十字架刑において代わりに罰されたということを信じ、受け入れることです。自分が受けるべき罰をキリストが代わって受けてくださった、ということを認め、信じ、感謝することです。もしそうしないなら、キリストの十字架の死は自分と関係せず、単なる歴史上の出来事で終わってしまいます。
その場合は、自分の罪は神に対して何のおわびも償いもなされていないことになるわけですから、赦されるはずがないのは当然です。
例えば、民法で債権の消滅時効という制度があります。1億円借りた人が、行き詰って返せなくなったとしても、お互いに何もせずそのまま10年たってしまえば、返さなくてもいいという制度です。ただし、それには要件があって、債務者は「あれは消滅時効にかかっています」と主張しなければなりません。この主張を「時効の援用」といいます。いくら10年たとうと、時効の援用をしない限り、借金を返さなければなりません。
それと同様に、キリストの十字架の死により人類の過去・現在・未来の罪が赦される道が開かれましたが、その恵みを個々人が受けるためには、「キリストの十字架の死は自分の罪のためでもあった、自分が受けるべき罰を受けてくださった」と信じ、言い表すことが要件なのです。それによって、罪が赦されるのです。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ローマ10:10)
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