なぜ性を罪悪視するのか。
性を罪悪視してはいません。かえって重要視しているのです。
聖書で、性は大切なもの、良いものとして取り扱われています。創世記1章22節に「生めよ。ふえよ。・・・」とありますが、生み、ふえるためには、性とそれに続く出産が不可欠ですから、それが大切に扱われねばならないことになります。性は親子関係、家族関係を生み出す出発点であり、民族生成の出発点でもあります。
また、創世記2章18節に「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われ、その帰結として「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2章24節)と説明されています。つまり、助け手関係(夫婦)となるための性的結合が定められているわけです。
イエス・キリストもパリサイ人に答えて言われました。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は・・・その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。・・・それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。・・・人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ19章4~6節)と。男と女が性的に結合することにより一体関係となり、それを夫婦関係の本質とされた、というわけです。
神は人間が原則として1人で孤立しておるべきではなく、夫婦となり、子どもを産み、家族を形成するものとされました。その核心に男女の性の結合を据えられたのです。このように、性は大切な部分を占めるわけです。
ただし、性の結合(性行為)は、以上の目的に従ってなされなければなりません。
ところが、性行為への欲望は大変強力ですから、目的外の場合に使われやすいのです。動物の場合は専ら繁殖という目的に限られているようですが、人間の場合は専ら性行為の快感の追求というものが大きな目的になりがちなのです。そして、その場合はさまざまの弊害・トラブルが噴出しがちです。見方にもよりますが、人類の有名・無名の出来事・事件・難事の過半に性のトラブルが絡んでいるのではないでしょうか。普通の家庭、個人の人生でも同様、性のトラブルが介在して難事や不幸が生じているようです。
何でも目的外に使うと弊害が生じるものですが、性行為は特にそれが甚だしいのです。
そこで、“性”を用いる場合の“決まり”を神が決めておられるので、これを守らなければなりません。それを守る限りで性は良いもの。守らないと、直ちにか徐々にか不幸になってきます。例えば、ダイナマイトは土木工事などで大変有用ですが、その取り扱い方法を誤まると暴発して多大の被害を及ぼします。これと同様です。“性”は取り扱い要領(決まり)を守らなければなりません。
その決まりとは、性行為は結婚関係の中でだけ用いるということです。性行為は2つのものを1つにする効果がありますが、それが結婚の効果であります。それは上述の創世記やイエスの言葉にもある通りです。ですから、結婚の効果をもたらすものを、結婚外で用いてはならない、そういう命令・律法・教えになるわけです。
具体的にいえば、結婚している者が結婚外[夫婦の相手以外の人]と性関係を結んではならない、ということ。それが“姦淫”であり、何度も戒められていることです。もう1つは、結婚していない者が性行為に及んではいけない、というもの。これは“不品行”ということであり、これも何度も避けるよう呼び掛けられています。もちろん、同性愛も非難されています。性の欲望をコントロールしてこれらを避けることが性倫理です。
もしこのことを無視したり、いい加減に考えたりするなら、その人も周りの家族も不幸になります。子どもたちが問題行動にゆき、家庭が崩壊してゆきます。また、めぐりめぐって社会全体も病んできます。道徳心が麻痺してゆき、不健全な現象が増えてきます。
性を罪悪視しているのではなく、むしろ尊重しているのです。性を正しく用いましょう。現代に一番求められていることです。
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