自分の栄光を求めることは悪いことではない。
自分の能力、賜物などを生かし、伸ばすことは、人間の本来的在り方であって、良いことではないのか。また、自分に矜持(きょうじ)を持ち、誇りを持つことは、向上心を強め、善事に励ませるし、醜いこと・下劣なこと・みっともないことに堕(お)ちないようにさせる効果があるのではないか――。
そういう面もあるでしょう。一方で、考えてみましょう。
あなたの能力、あなたの賜物にはどんなものがありますか。思考力、記憶力、想像力、努力し続ける力、工夫・創意、忍耐力、才覚、指導力、体力、運動能力、器用さ、技能、人間的魅力、顔付き、容姿、風貌、財力、弁舌の才、お金もうけの才、芸術的表現力、歌唱力、生まれ付きの地位、家柄、出自、立場、権力、知力・・・。
これらはよ~くよ~く掘り起こしてみると、生まれ付き、あるいは、父母などの家族関係、家柄など生まれ落ちる環境、成育環境などによって得たものが多いのです。時にはその後の好運などもあるでしょうが、大体が自分以外の要素で決まるものです。純粋にあなたの努力がどの程度関与しているのでしょうか。努力できる力もまた生まれ付いている場合が多いのです。
これら広義の能力、才能、賜物などは、多くが文字通り(神様から)賜ったもの、もっと謙虚に言うならば預かっているものです。もし、そうなら、自分のものだ、自分の功績だとして誇るのはよくない、と言えませんか。自分が褒められたい、たたえられたいと思うのは間違いではないでしょうか。
人がもし誇るなら、その人は傲慢(ごうまん)・不遜になりやすい。そうなると、真相が見えなくなり、つまづきやすくなります。
「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたし(神)を知っていることを」(エレミヤ9:23)
自分の栄光を求めていると、他人からよく見られたい、褒められたい、よい評価を得たいとひたすら考えるようになり、主体性を失います。他人の意識に媚(こ)び、他人の意識に合うように生きようとする。自分の真の姿を隠し、自分を偽る。偽善者になりやすい。また、そのように装い、そのように努力することで疲れ果てることにもなりかねません。
自分の栄光を求めていくと、往々にして、隣人への愛がおろそかになり、競合するものをねたみ、自分に悪評する者を憎むようになります。悪い評価はそれが正しくてもあからさまにすることを嫌い、時には競争者の失敗・不運を喜び願うようになりがちです。醜い心、悪臭をかもす存在になりがちです。
自分に何かを与えるのは究極的には神様です。神様こそ、褒めたたえられるべき方です。そして、人はそもそも神様の栄光のため、造られ、命を与えられているのです。人が自分の栄光を求めるのは、この根本的事実に反することではないでしょうか。
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