神を恐れて、びくびくしながら生きるのはバカらしい。
「そうだ、神なんか恐れず、したいことを存分にして生きればいい。神はそれを罰するか、見過ごすか分からない。いや、全然見ていないかもしれない。いやそれ以上に神なんかいないかもしれない。多くの人がしたい放題をして生きても、何のお咎(とが)めも受けていないではないか」。そう考える人もいます。
神は、人の人生の途中で、その人に警告する意味で何かつらいこと、苦しいことを与えることがないことはない(その時は謙虚に悔い改めるほうがいいですね)。しかし、神は原則として、人がどう生きようと放置しておかれます。人生の決着(さばき)は、原則として人生全体を見てから、つまり肉体の死の後である、ということです。だから、それまでにお咎めがないからといってズッと(死後にも)何もないということではありません。
神が、人の死まで何もしないのは、その人が悔い改めて神に立ち返る可能性を見て辛抱強く待ってくれているからです。逆にいえば、死後は必ずさばいて精算されるのです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル書9:27)
それでよければ、冒頭のように考えて生きてもいいんでしょう。
パスカルは、あの『パンセ』の中でこう書き留めています。「私は、処罰があると信じて死んだ後にそれが誤りであったとわかるよりも、処罰がないと信じて死んだ後でそれが誤りであるとわかるほうが段違いに大きな誤り、取り返しのつかない誤りがある、といいたい。その大きな誤りによって永遠の刑罰を受けねばならないからだ」
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