私は悪いことをしてないのに、なぜ罪人扱いされるのか。正しい人も多い。なのに、聖書はみな罪人というのか。
前回述べた罪の4段構造の通り、罪の出発点・土台は、人がその心の中心に神をお迎えせず、逆に無視・無関心であることです。
もしあなたが言動や態度において仮に完全であったとしても、自分の造り主であり、親ともいうべき方である神を認めないなら、あるいは無視しているなら、(人はいざ知らず)神はその人は罪人だとされるのです。神はその人を喜ばない、(率直にいうと)怒っているのです。
例えば、あなたが幼少の頃から成績が良く、社会的に問題を起こさず、順調に学歴を積んで、一流企業に就職し、何か業績を挙げたにしても、もし、親と口もきかず、行き来もせず、注意も受け入れず、親を軽蔑していたとしたら、その親はどう考えるでしょうか。
当然、その人のことを悲しんだり、怒ったりするでしょう。そんな態度が変わらないなら、相続もさせたくないと考えるでしょう。その人の生き方は、間違っています。仮にほかの点が良くても、親をそんなふうにないがしろにするのでは、人間として失格だ、罪人だといわざるを得ません。
また、現実に世で生きる自分を見つめると、前回 ➁ の「エゴイズム」や ➂ の「内心の罪」がないと言えるか。いやそうは言えない、やっぱり罪人だと認めざるを得ないのではないでしょうか。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)と言われたら、粛然とせざるを得ません。
自分は正しい人だ、と思っているのは、それは外部的行いしか見ていないからなのです。詳細に自分の心を掘り返してみれば、とてもそうは言えず、むしろ罪だらけの罪人だ、といえましょう。
◇