神はなぜ人を完全なものに(罪を犯さないものに)、お造りにならなかったのか。
人は誰も神の前で罪を犯す。悲しいくらいに罪にとらわれてしまう。それがなければどんなに幸せなことだろう。このような悲しい現実を前にして、「なぜ神はそもそもの初めに人を罪を犯さないものに造ってくださらなかったのか」との抗議めいた気持ちになる場合があることはよく理解できます。
無論、神は人をどのようなものにも造ることができました。神は、造り損ねて(失敗して)人間をこのように不完全な、罪を犯しやすい存在に造ったのではありません。罪を犯さないものにも造れたのです。
しかし、神は、神の命令に完全に従い、罪を犯す可能性が全然ないという人間は造りたくなかったのです。そのような存在はいわばロボットのようなもので、機械的な従順であるだけです。そのような存在ではなく、従うことも従わないこともできる中で、あえて従うことを選び取るというような存在を神は求めました。
それが自由意思を持った存在としての人間です。神ご自身がまったく自由な方であるので、その神に似せて人を自由意思を持つものとして造ろうとされたのです。神は、自由意思を持つ存在があえて選択し決断して神に従うこと、そんな存在を好ましく思われたのでしょう。
そのようにして造られた人間は、完全に従うことも反逆することも、可能性としてはできました。ところが実際は、反逆することを選び、不従順の決断をしてしまったのです。
人はこのように失敗して、そして代々罪の体質を持つようになりましたが、神はそこから救う計画も持っておられたのです。すなわち、御子イエス・キリストによる贖(あがな)いのわざとそれを信じる信仰による救いを計画し、用意しておられたのです。それは人の不従順を癒やす道でした。
だから、神による人の創造は完全な失敗ではなく、いわば織り込み済みの創造でありました。つまり、神は、人に自由意思を与え、人が失敗する可能性も見込み、失敗した場合に救い出す方法まで考えておられたので、自由意思を与え、罪を犯し得る存在にお造りになったのです。
神の深いお考え、ご計画に感嘆し、感謝するばかりです。
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