イエス・キリストはエッセネ派の「義の教師」ではないのか。
エッセネ派とは、中間時代(旧約聖書の終わりの頃からキリストまでの間の時代)でサドカイ派、パリサイ派に次ぐ第3の宗教勢力でした。しかし、その詳細はなお謎の部分があります。マカベア戦争の初期(BC165年ごろ)に戦争から退いたハシディーム(敬虔派)の一派から生まれたのかもしれません。
この派のことについては、ユダヤ人作家ヨセフスやフィロン、ロ-マの博物誌家プリニウス、それに初期クリスチャン著述家ヘゲシッポスなど何人かが記述しています。
それによれば、エッセネ派は隠遁的・修道院的・禁欲主義的・清潔主義的なグループで、一部は街に住んでいたが基本は荒野に退いて共同体で生活したようで、入会希望者は3年間の試験・見習いの期間を経て、正義と名誉と会への忠誠の宣誓を求められたようです。
独身主義が原則で、財産を共有し、水による儀式的沐浴に努め、質素な衣服で聖書と古典の研究に専念しました。戦争を忌避した平和主義者でした。断定はできませんが、クムラン共同体は、この一支流らしい。後に、死海の北西端を見渡す小さい高台で遺跡が発掘され、今も残っています。
その近くの洞窟から死海文書が発見されました。ところが、そのうちのダマスコ文書に、この集団の始まりがネブカデネザル王の征服後390年(すなわちBC196年)だとし、それから20年後(BC176年ごろ)に義の教師が出現したと記されています。
彼は神の召命により、エルサレムの一部の祭司を率いて砂漠に行き、極端な終末的・禁欲的な宗団を作り、終わりの日にメシヤとして到来するとして、殉教の死を遂げたとされています。
この最後の点は似ていますが、イエス・キリストは決して禁欲的でなく、食べ、飲み、馥郁(ふくいく)とした生活でした。共同体で規則に縛られた行動でなく、隠遁的でなく、研究生活でもなく、積極的に伝道の旅をしました。一部の類似性の故にエッセネ派だと断じることはできませんし、時代的に見て、義の教師でもその後継者でもあり得ません。
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