正木弥
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
人は誰も、心の中の罪など、無意識のうちに犯してしまうものが多い。行いについても、つい道徳を忘れて、いつの間にか犯してしまう場合が少なくありません。加えて、ときには意識的な罪・悪事をあえてする場合もないわけではありません。
苦しみがない人はいませんから、多くの人が紛らし・気晴らしに生きています。それが人生である、といった誤まった生き方すらあるようです。しかし、気晴らし・紛らしはその人に問題点を見させないようにしてしまうのです。
御利益宗教は、“無病息災” や “交通安全” などを看板にして、お参りを呼び掛けています。しかし、お参りしても、病気にかかるときはかかり、交通事故が起こるときは起こります。初詣で交通安全をお参りした帰りに事故に遭ったなどということは日常茶飯事です。
楽しく生きられることは結構なことです。順調な人生も大きな恵みです。ただし、それ自身が人生の目的でないことはきちんとわきまえておくべきです。人は肉体の人生が終わった後、天国で永遠のいのちに生きる、そのことこそ人生の直接的目的です。
中国・唐の時代の「枕中記」という本にある物語です。その主人公・蘆生は地方に住む貧しい青年でしたが、出世して豊かで華やかな人生を送りたいと、勉強しました。その登竜門である科挙(進士)の試験を受けようと、都へ向かいました。
人の人生はさまざま。生きる地域や国が違う。また生きる時代が違う。上流階級で生まれるか、下層社会で生きねばならないかも違う。男か女かの違いはもちろんだ。豊かな能力を使って生きるか、顎でこきつかわれて生きるか。
その通りのように見えます。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい」(伝道者の書8:14)。人生の不条理は多くの人が感じるところです。
運・不運は、人間の努力や心掛けと関係なく、好都合な事態、あるいは不都合な事態になることをいいます。どうしてそうなるのか、人間には分かりません。分からないことは、人生で幾つもあります。例えば、そもそもの「生まれ」もそうです。
一方で、大した勉強もしないでスイスイと東大へ行く人もおり、他方でいくら一生懸命に勉強しても受験で失敗ばかりの人もいます。一方で体力抜群でたたいても死なないという人もおり、他方で病気問屋みたいな人もいます。
高い門地、高い階級、権門勢家に生まれる人もいれば、低い身分、下層階級、落ちぶれた家に生まれる人もいます。金持ち、財産家の家に生まれる人もいるし、貧しい家に生まれる人もいます。容貌よく、体格よく生まれる人も、逆の姿で生まれる人もいます。
設問の前段はその通りですね。生まれる前は自分で決断することも意思表示することもできないから。私たちはみな否応なく生まれてきたわけです。次に、生まれたのは親が造ったせいだ、と考えるなら、後段もその通りということになって、生き続ける責任はないといえます。
死のかなたに何も見ていない人、死んで終わりだと考えている人は、この世のことに熱心になるほかありません。この世でもっと楽しみたい、良い評価を得たい、何かを積み上げたい、あるいは積み上げたものをより大きくしたい、という願望で熱心になるのでしょう。
苦しい人生、つらい人生、面白くない人生、暗闇の人生、困窮の人生にどのように対処すればいいのか。具体的には、ケースごとに模索しなければなりませんが、どのような場合にもいえる基本的・根本的なことは唯1つ、キリストの神を信じることです。
人生は良い時、楽しい時ばかりではありません。苦しい時、つまらない時、展望が開けない時、先行きに何の光も見えない時、追い込まれて逃げ場がない時、むなしくて仕方がない時、などなど結構多いものです。
人は大体いつも何らかの苦しみを持っていて、その合間に、あるいは並行して楽しい時を与えられているように思われます。楽しみも多いけれど苦しみの方が多いように思いますが、いかがでしょうか。
神を信頼し、お任せして耐えることが大切です。いつか分からせてくださる時が来るでしょう。仮に分からなくても、そのようにして神を愛して生きるなら、神は、そのような人のためにすべてのことを働かせて益になるようにしてくださいます。
以上は現代人のポピュラーな苦しみです。どれ1つとっても、大きな苦しみです。これ以外にも悩み、苦みは実にたくさんあります。ある人が数えたら783(なやみ)あったそうです(笑)。
もし死体があったら、イエスの復活を否定したい人々(祭司、律法学者、ヘロデ党の一味)は「死体はここにある」といって吹聴したでしょうが、それをしたという記録はありません。つまり、どこにもなかったのです。
イエスの奇跡は幾つかに分類されますが、基本的には、イエスが神様でもありますから、人間に分からない何らかの方法で奇跡をなし得たわけです。どうしても信じられない方のために、「あり得るかもしれない」という方法の1つを考えてみましょう。
神は天地を創造した全能な方。その初めに、土地のちり(地上の小さい物質)で人間の体を造り、命の息を入れた方です。その過程では、私たちの想像もつかないようなさまざまな工夫や精妙な知恵がこらされ、実にうまくできた体を創り上げてくださったのです。