人はそれぞれの人生を生きて、そして死んでいく。神を畏れる人もそうでない人も、あまり変わりがない。ならば、したいことをして死んでいけばいい。
人の人生はさまざま。生きる地域や国が違う。また生きる時代が違う。上流階級で生まれるか、下層社会で生きねばならないかも違う。男か女かの違いはもちろんだ。豊かな能力を使って生きるか、顎でこき使われて生きるか。器量に恵まれるか、人柄良く仲良く生きるか、愚痴りながらすねて生きるか。
そんな中でも、病気や事故に遭遇するか、うまくすり抜けて生きるか。波瀾(はらん)万丈になるか、単調な人生になるか。幸運な人生になるか、悲惨な人生になるか。実にさまざま。意気に感じて熱中して生きるか、欲望に振り回されて生きるか。酒や異性、ギャンブルを追いかけるか、気高いものを志向するか。成功し、勝利し、もてはやされる人生か、つらい不成功の人生か。
そういう違いはあっても、共通することがある。それは、多くの人が、死ぬまでのこの世の生だけを考え、そこを見栄えよく、楽しく生きようとしていることだ。うまくゆかなくても、それなりに追いかける。死んだ後のことはあまり考えない。子や孫のことは考えるが、自分の死後のことに強くこだわる考察がない。希望がないのだ。「この人生をできるだけ多く楽しめば、あとのことはどうでもいい」と。しかし、それでは消え去ってしまう人生になってしまう。せっかくの人生だが、何も残らない。
「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ40:6~8)
せっかく与えられたいのちだ。美しく咲くだけでなく、実を結ぶようにしよう。人は、楽しさを追うだけでなく、神を畏れ、キリストにつながるなら、永遠のいのちの実を結ぶことができる。生きた意味がいつまでも残る人生になる。この希望を持とう。
ちょうど、ある人が会社から別の町へ1週間くらいの出張命令を受けたようなものだ。その人は、その別の町で指示された仕事をするのが目的だから、その町の1週間の滞在期間中、遊べなくてもかまわないし、楽しく過ごせなくてもかまわない。その町で有名にならなくてもかまわない。用務をきちんと果たして自分のすみかのある所へ帰ることが大切なのだ。
私たちのこの世の人生は、この人の1週間のようなものだ。私たちの用務は、その期間中にキリストを信じて生きることだ。それさえできれば、あとは本拠地・天のすみかに帰っていくのだ。
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