私は自分で好んで生まれてきたわけではない。それなら、生き続ける責任もないではないか。
設問の前段はその通りですね。生まれる前は自分で決断することも意思表示することもできないから。私たちはみな否応なく生まれてきたわけです。次に、生まれたのは親が造ったせいだと考えるなら、後段もその通りということになって、生き続ける責任はないといえます。自己という存在が他人の意思で決められるというのは不合理で、納得できないというわけですね。
しかし、第85回「人間はその親が造ったのか」で論述した通り、親の意思は子が生まれるためのきっかけにすぎず、真に人間に命を与えたのは神です。このことを正しく認めるなら、その命をどうしようと勝手だという理屈は出てきません。
「神が私に相談なく私に命を与えたのはけしからぬ」という言い方ができないことはありませんが、なにしろ神は主権者ですから、異論を言うことはできません。加えて、人生の途上でキリストを信じさえすれば神の子とされ、天の御国で永遠の命にあずかれるのですから、「もうけもの」ではないでしょうか。
とにかく、神は人を神の子にし、天の御国で住まわせようという目的でお造りになったのですから、それを受けるつもりが一切ないのか、あるいはあるのか、慎重に考えてから、生きる責任の有無を判断してもいいのではないでしょうか。
神の意向に反対して、あるいは、神の意向を無視してまで「生きたくない」というのなら、生き続ける責任はない、といえるでしょう。ただしその場合は、それほどまでに神の意向にあらがうことについて責任を問われるでしょう。
◇