人は最後に死ぬのにどうして一生懸命に生きるの?
死のかなたに何も見ていない人、死んで終わりだと考えている人は、この世のことに熱心になるほかありません。この世でもっと楽しみたい、良い評価を得たい、何かを積み上げたい、あるいは積み上げたものをより大きくしたい、という願望で熱心になるのでしょう。しかし、この世で得たもの、積んだものは何1つ死のかなたへ持っていくことはできません。積み上げたものは、死のその時から、徐々に、あるいは急速に崩れていくのです。
“先”に希望のない人は往々にして、一生懸命に生きることができません。むなしさ感にとらわれたり、やたら欲望の充足を求めたり、趣味に没頭したりの人も多いですね。
ところが、キリストの神様は、信じる者に、死後のいのち・永遠の人生を約束してくれています。すべて、人の人生は、決して肉体の死で終わるものではありません。この世の人生をどう生きたかに従って、ある人はパラダイス経由で天国に行き、永遠のいのちに生き続け、ある人はハデス(よみ)経由でゲヘナへ行くことが定められています。この世の人生はそのどちらに行くかを決める所・その時であって、大変重要な場です。ですから、一生懸命にならなければなりません。この世の人生は死で終わるのでなく、“先”(来生)があるのでそれを見通し、今、奮闘して生きねばなりません。
例えていうなら、この世の人生は学校みたいなものです。そこできちんと勉強し、卒業すれば、就職の道が開かれるのです。学校生活は本来遊ぶ場ではありません。一生懸命に学ぶ時です。
神は永遠の存在です。この神に関わるものだけが残ります。イエスも言っておられます、「心を尽くし、精神を尽くし、知力を尽くして、主なる神を愛せよ」と。一生懸命に、キリストの神様のために生きるべきであります。
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