人生が苦しければ、死んでもいいか。
人生は良い時、楽しい時ばかりではありません。苦しい時、つまらない時、展望が開けない時、先行きに何の光も見えない時、追い込まれて逃げ場がない時、むなしくて仕方がない時、などなど結構多いものです。そんな時、なお生きることに何の意味があるのか、生きていてどこへ行くのか、失望の雲に囲まれて分からなくなって、すべてを投げ出したくなります。「生きていても面白くない」「死んだら楽になれる」「自分の命だ。どうしようと構わぬではないか」「ええい、死んでやれ」。ということで、自殺してしまうのでしょうか。
「自分の命だ。どうしようと勝手だ」とは、口に出さなくても、きちんと意識していなくても、自殺者の気持ちの前提です。いや、自殺者だけでなく、ほとんどの人の意識の中にあるのではないでしょうか。この言葉、この考え方が間違いだとはっきり言える人はほとんどいません。「早まるな。生きていればまたいい時が来るから」「何か没頭できるものを探してみればいいよ」。それくらいは言えますが、あくまで「自分の人生なんだから、放っておいてくれ」と言われれば、それ以上言う言葉がありません。
しかし、キリストの神を信じる者の言葉は違います。「人の命は神がお造りになったもの、自分の気分や考えで勝手に処分していいものではありません。神はあなたの人生にも目的を持っています。もし、あなたがキリストを信じさえすれば、あなたを神の子とし、将来永遠の命を与える、という目的なんです。今の人生のつらさ、苦しさは永遠に続くものではありません。だから、生きられる間は神が生かしてくれているのですから、自分で死んではいけません。その間にキリストの神を信じ、神の子とされなさい。そうすれば、道が開かれます」と。
◇