キリストの復活は証明できるか。
イエス・キリストは、復活の後、次の通り11回現れたことが記録されています。
① マグダラのマリヤに(3日目の朝)
② 他の女たちに(同上)
③ ペテロに(その日のいつか)
④ 11弟子に(トマス不在時に)
⑤ 11弟子に(トマスもいたとき)
⑥ クレオパなど2人に(エマオ街道で)
⑦ 7人の弟子に(ガリラヤ湖畔で)
⑧ 11弟子に(ガリラヤの山の上で)
⑨ 1度に500人以上の人々に
⑩ ヤコブに
⑪ 使徒たち全部に
もしイエスがよみがえらなかったら、死体は墓の中に残っていたはずですが、事実はありませんでした。もし死体があったら、イエスの復活を否定したい人々(祭司、律法学者、ヘロデ党の一味)は「死体はここにある」といって吹聴したでしょうが、それをしたという記録はありません。つまり、どこにもなかったのです。
万一、イエスの弟子たちが死体を隠したのなら、弟子たちは架空のことを事実であるかのように工作したことになるが、そんな状況で復活を力強く、雄々しく主張するなどは心理的にとてもあり得ないことです。
弟子たちが復活のイエスに出会った記事は、③ の場合を除き、複数の者たちの体験であって、幻視とか恍惚(こうこつ)状態とかであったとは思われません。また、集団心理といったものは、いつまでも続くものではありません。
特に、⑨ の「500人以上の人々」は、聖書の記事が書かれた時点でまだ生き残っていたのですから、もし復活が事実でないなら「あの聖書記事は事実でない」と抗議できる状態でした。しかし、そんな抗議も指弾も非難もありませんでした。
イエス仮死説というものもあります。つまり、「イエスは完全に死んではおらず、仮死状態であったものが息を吹き返したのにすぎない」というわけです。しかし、イエスの体を葬るまでに、死刑執行者である百人隊長がイエスの死を確認してから、その体をアリマタヤのヨセフに下げ渡した、と書かれています(マルコ15:43~45)。
また、イエスの死体はすねを折る必要がなかったこと、兵士たちの1人がイエスの脇腹をやりで突き刺したところ、血と水が出てきたこと、これらからイエスの死は明らかだったことが書かれています。よって、仮死状態だったという議論には根拠がありません。むしろ、「死」の事実が至る所で確認されています。
聖書の復活は、後日の作り話ではないのか、との言い方もなされています。しかし、福音書の記録する弟子たちの姿は、恐れたり迷ったり、自らの失敗も包み隠さず記述しており、誠実な人々でありました。つまり、ありもしないことをブチあげるような人物とは思えません。
弟子たちは皆イエスの十字架の死により落胆していました。イエスが復活するなどとはまったく予想をしておらず、思いつきもしませんでした。そんな彼らが作り話をできる状況にはありませんでした。
ところが、イエスの復活を境にして、弟子たちが強い人、確信の人に変えられていきます。新約聖書「使徒の働き」には、確信に満ちてイエスの復活を主張し、復活こそ宣教の出発点であり中心点であることを強く主張する弟子たちが記述されています。
彼らは、イエス・キリストとその福音を宣べ伝える人に変えられていきます。そのことを使命とし、それに命を懸けて遂行していきます。それは殉教の死を伴うものでしたが、それをものともせず、四方八方に、近くに遠くに赴いたのです。
マタイはエチオピアへ、マルコはエジプトへ、タダイとバルトロマイはカッパドキア・アルメニアへ、トマスは東部シリアからインドまで、ペテロはローマへ、ヨハネは小アジアへ、ピリポはサマリアへ、バルナバはキプロスへ、パウロは現在のトルコ各地、マケドニア、ギリシャ、ローマ、多分イスパニア(スペイン)まで・・・などなど。
そして、多くが殉教の死を遂げました。これは、イエスの復活が事実であったからこそなし得たことです。あやふやなことに命を懸けることはできません。この点は最も強力な証拠だといえましょう。
復活が事実であったからこそ、初代の信徒たちは、主の日(神礼拝の日)を土曜日から復活の日すなわち日曜日に変更したのです。
復活がなければ、すべては崩れてしまったでしょう。復活があったからこそ、約束も希望も忍耐もあり、信仰もあるのです。「神が復活させたのに、復活がないというのはどうしてですか」と言うほかありません。
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