イエス・キリストが処女マリヤから生まれたというが、そんな非科学的なことをどうして信じられようか。
神は天地を創造した全能な方。その初めに、土地のちり(地上の小さい物質)で人間の体を造り、命の息を入れた方です。その過程では、私たちの想像もつかないようなさまざまな工夫や精妙な知恵がこらされ、実にうまくできた体を創り上げてくださったのです。それは、医者も生化学者も驚くほどです。ならば、例えば、1回かぎりの特殊な精子を造り、処女マリヤの胎の中に送り込むこともできないことではないでしょう。
神は1回限りのくすしいみわざ(これを奇跡といいますが)を幾つも行い、それを聖書に記録しています。ノアの時代に大洪水を来らせ、ソドムとゴモラには塩と硫黄の火を降らせ、99歳のサラが子を産むようにされ、出エジプトで葦の海を渡った際は、水をモーセの民の左右で壁のようにとどめ、荒野で40年の間マナを降らせ、ヨルダン川渡河の際、流れを止め、エリコの城壁を崩れさせ、エリヤの祈りにより天から火を降らせ、エリシャの言葉を通してナアマンのツァラアトを癒やし、ネブカデネザル王を牛のようにし、ベルシャツァル王の宴会の場で塗り壁に指を現させ、字を書かせ、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルを何の傷もなく守り、イエス・キリストによって盲人の目が開かれ、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、死人を生き返らせました。
このように、神は、必要に応じて奇跡を起こしました。今日、それを科学的に説明できるようになったものもありますが、依然として分からないものもあります。肝心なことは、神は、必要に応じて、どんなことでもされるし、また、できるということです。マリヤの処女受胎も、神の全能性を認めるなら、神が実際行ったこととして受け止めていいのではないでしょうか。
神は、700年も前に、キリストのことを念頭に、処女が子を産むよう計画され、預言者イザヤを通して預言していました。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(イザヤ7:14)。この預言が成就したわけです。私たち人間の知恵・常識からすれば無理なことであっても、神は人の救いの計画の一部として折り込んでいたわけです。
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