人生で、生まれの不平等は明白な事実だ。どうしてこうなるのか。
高い門地、高い階級、権門勢家に生まれる人もいれば、低い身分、下層階級、落ちぶれた家に生まれる人もいます。金持ち、財産家の家に生まれる人もいるし、貧しい家に生まれる人もいます。容貌よく、体格よく生まれる人も、逆の姿で生まれる人もいます。多くは健常で生まれますが、中には障がいをもって生まれる場合もあります。生まれつきで、考える力、記憶する力、表現する能力などに恵まれている人も、そのようなことに少し不足している人もいます。温かい家族関係の中に生まれる人もいますが、反対に、夫婦げんかや家族のいさかいが絶えず、利己的な関係の中へ生まれる人もいます。
両極端の中間的状態(少し恵まれている人、少し恵まれていない人)で生まれる人が一番多いのではないでしょうか。もちろん、それを知って生まれる人はいません。「生まれつく」ということなのです。要するに、その生まれつきはまことに不平等であって、大きく変えることができない場合がほとんどです。
この生まれつきによって、人間のいわゆる幸不幸のかなりの部分が決まってしまっています。その後の人生における心がけや努力によって少しは緩和できる場合もあるでしょうが、生まれつきの部分がかなりものをいいます。乗り越えるのはなかなか難しいところです。不平等は大体人生に尾をひいてゆきます。この現実をどう考えたらいいのでしょうか。神は、なぜこんな不平等・不公平なことをなさるのでしょうか。
人間の人生が、いわゆる幸福になることをもって成功とし、良い人生だとするなら、生まれつきの不平等は実に納得しがたいことで、悪い生まれの人はそのように生まれついたことを恨んでいい。場合によってはすねて、投げ出してもいいことになるでしょう。
ところが、人生はいわゆる幸福になるための場ではありません。本来、楽しむための場でも、いい生活をする場でも、誉められたり自己実現をはかったりする場でもありません。そういうものは、あってよし、なくてよしのものなのです。この人生はそういうものを求める場ではなく、端的にいうと、どういう状況でか、キリストに出会って、神の子にせられる場なのです。それはすなわち、天の御国へ行くための準備の時である、といえます。
そのような場・そのような時であるなら、いわゆる幸福になるための「生まれ」、社会で活躍するための能力・健康、他からうらやまれるようなたまもの・姿かたちなどはあってもよし、なくてもよしなのです。神は、人間がみな地上で幸福でなければならないとは考えておられません。人間がどんな生まれであろうと、みな、置かれた状況の中で、キリストを信じて神の子たる資格を得てほしいと願っておられるのです。
多分、そのようなお考えから、生まれ落ちる状況を千差万別にしておられるのでしょう。それは人間の目には不公平・不平等に見えるかもしれませんが、キリストを信じるためには何の不平等もありません。人それぞれが、何はできなくても、キリストを信じるなら成功の人生、勝利の人生としておられるのです。多分、このようなお考えから、人間の生まれの不公平を是正しようとはされないのでしょう。
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