人は生まれつきの能力においてあまりにも差が大きすぎる。神は不公平きわまりないことをされる。
一方で、大した勉強もしないでスイスイと東大へ行く人もおり、他方でいくら一生懸命に勉強しても受験で失敗ばかりの人もいます。一方で体力抜群でたたいても死なないという人もおり、他方で病気問屋みたいな人もいます。数学の才能、弁舌の才能、音楽の才能、美術の才能、語学の才能、スポーツの才能など、実に多彩な才能があり、それぞれに恵まれている人、恵まれていない人がいます。
中には、多くの才能を併せ持つ人もいますが、およそ才能というものに縁のない人もいます。その結果、才能豊かな人たちは、(外面はともかく)内心では尊大になりがちで、自分たちがいい目をしたり、ちやほやされるのは当然と考えがちです。逆に、才能のない人々は意に反して他人に使われ、軽蔑され、卑屈にならざるを得ない、劣等感にうちひしがれて生きるほかありません。神は、なぜこんな不公平なことをされたのでしょうか。しかし、よく考えてみると・・・
- 立派だ、有能だといっても、人間全体の能力や立派さから見れば、差はわずかです。ドングリの背比べのようなものです。人間全体は実にさまざまな能力がありますが、その一部が突出して目立つだけです。傲慢になることも卑屈になることも間違いです。もしそれを忘れて高慢不遜になるなら、遠からず鼻をへし折られるでしょう。
- そのような有能な人、才能豊かな人も、別の面で、欠点や弱さや愚かさを、そして罪を内に持っています。そのことは、立派な(と思われていた)人が私たちと同じような弱さを露呈したり、その罪悪が明るみに出たりすることで分かります。弱さや愚かさや罪などにおいて、才能ある人もない人も、同じ地面に足を置いているのです。
- そうした人の持っている才能・賜物は、その人が磨いたり、伸ばしたりした面も多少はあるでしょうが、もともとは賜ったもの、いや預かったものなのです。多くの人々はそれを天の神様から賜ったものと見たので「天賦の才能」と呼びならわしてきたのです。賜ったものなら、自分のものであるかのように誇ったり、高ぶったりするのは間違いです。預かったものならなおさらです。
- 高い能力・才能が神からもらったもの、預かったものであるなら、それを与え、あるいは預けてくれた方のためにうまく用いる責任があります。自分の欲得のためでなく、自分の栄誉のためでなく、自分の満足のためでなく、神の御心のために用いることが大切です。
新約聖書マタイによる福音書25章に、タラントの教えが書かれています。主人から商売の元手(資本)を預けられた人がそれを活用してもうけを上げなければならないように、人間は一人一人神から才能(タレント)、能力という元手を預けられているのだから、それを神のためにうまく用いなければならない、というものです。
多く預けられている者の責任は大きいわけですから、誇るのでなく、浪費するのでなく、責任の大きさを痛感し、懸命に活用しなければなりません。そうでないと、責任を問われて、罰せられるでしょう。一方、才能・能力の少ない者はいたずらにその小ささを嘆く必要はないのです。極端な場合はただ、キリストへの信仰さえ得ておればいいのですから、安心です。
また、能力・才能を豊かに預けられている者は、よほど気を付けないと自分の欲望、自分の栄誉のために使いがちになり、また、高慢になり増長しがちになります。そうなると、神をあざ笑ったり、無視したりで、キリスト信仰になかなか近づけません。それは最大の不幸です。(才能・能力の)貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから(ルカ6:20)。
◇