人生には運・不運があるが、それは実に不合理なものだ。正しい神がどうしてそんなことをするのか。
運・不運は、人間の努力や心掛けと関係なく、好都合な事態、あるいは不都合な事態になることをいいます。どうしてそうなるのか、人間には分かりません。
分からないことは、人生で幾つもあります。例えば、そもそもの「生まれ」もそうです。どうしてそのような家柄で、階層で生まれたのか。どうして裕福な、あるいは貧乏な家庭に生まれたのか。どうしてそのような容貌で、体格で生まれたのか。どうしてそのような障害で、体質で生まれたのか。どうしてそのような資質で、能力で生まれたのか。どうしてこのような温かな家族の中に、あるいは仲の悪い両親のもとに生まれたのか。どうしてこの国に、この時代に生まれたのか。
これらの理由は全然分かりません。不思議ともいえます。しかし、今、私は厳然としてこのようにあるのです。それは、幸運である部分と不運・不満である部分とのないまぜですが、いずれにせよ、どうしようもありません。
病気や事故、事件は大体訳の分からない事情で起こります。そこでも運・不運があります。何か自由に選択することで、熟慮して選択したとき、それでも良い結果に至る場合も、悪い結果に至る場合もあります。その結果について、人は運・不運だと受け止めるほかありません。人生は、たくさんの運・不運に囲まれているようなものです。
運・不運はどうしてそのようになるのか、多くの人は偶然の作用だと考えます。なるほど、第一次的には偶然が働く出来事もあり、時にはサタンさえ介入する場合もあります。しかし、全体を通してよく見ますと、究極的には神がすべてのことを統御しておられるのです。
その部分、ある一時点だけを見て、神のなさることの正しさや深い愛を疑うべきではありません。不運であっても、目前の事態をいたずらに嘆いたり、恨んだりすべきでありません。公義の神への信頼に立って耐えていくなら、最終的には必ず、良い事態へと導いてくれます。逆に幸運であってもただ喜んだり、有頂天になるのではいけません。神に感謝しつつ、神のご栄光のため用いるべきです。
族長ヨセフは、兄たちのねたみを受け、若い頃奴隷としてエジプトに売られましたが、主(神)が共におられたので、パロの侍従長の家で幸運な人となったと書かれています。ところが、ご主人の妻の誘惑を断ったがため、逆に讒言(ざんげん)に遭(あ)い、投獄されるという不運の人生になりました。
しかし、その所でよく忍耐して、神に信頼して生きたので、獄から釈放されただけでなく、一躍エジプトの宰相に抜擢されるという幸運に恵まれたのです(旧約聖書・創世記第37、39~41章)。運・不運の大きな波乱の中で、神の教えに背くことなく、よく忍耐したので、最終的に幸運の人となれたのです。
ヨブという人は、敬虔な財産家でしたが、彼があずかり知らないところで、神がサタンにヨブの身辺を害することを許容されたため、ある日急に財産を奪われ、家族を取り去られ、深刻な病に侵され、悲惨の極みに落とされたのです。
しかし、そうなっても神を呪わず、神に不信仰になることなく、ひたすら、神のなされたことの真意を求めて肉迫していきました。このようなヨブに対し、神には人間の知らない深い慮(おもんぱか)りがあるのだから、文句を言わずについて来るべきだと諭したのでした。
他方、終始一貫不信仰にならずに神に迫った点は良しと認めて、旧に倍する財産を与え、家族を与え、もちろん健康を回復させてくださったのです。その災難の前の半生より後の半生をもっと祝福されたのです。
人間は、幸運の時は謙虚に生きることが大切です。不運の時は悲観せず、神を呪わず、やけにならず、愚痴や不満に溺れず、ひたすら忍耐して神の救出を待つべきです。そうすれば、神は必ず、前に倍する幸運で臨んでくださるのです。神は最終的には、正しく生きる者には良く報いてくださるのですから、神に信頼し、運・不運に惑わされず、忍耐していきましょう。神は公義(正しいこと)をなさる方です。
◇