神を信じる人にもつらいこと、苦難や災難が来る。それなら、信じる意味がない。
御利益宗教は、“無病息災” や “交通安全” などを看板にして、お参りを呼び掛けています。しかし、お参りしても、病気にかかるときはかかり、交通事故が起こるときは起こります。初詣で交通安全をお参りした帰りに事故に遭ったなどということは日常茶飯事です。お参りする側も、看板に偽りありだと怒ることはありません。初めから、そんなに期待していないからです。
対するキリスト信仰は、“御利益信仰ではない” と初めから申しております。苦難や災難が来ないとは全然約束していません。いや、むしろこう言っています。「あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇敢でありなさい」(ヨハネ16:33)。生きる状況がどうなろうとも、忍耐し、神の救出を待望して生きるよう勧めています。キリストの神が “試練とともに脱出の道も備えてくださる”。そのことを信じて耐えていくのです。
苦難が激しくて、極端な場合死に至るかもしれません。しかし、肉の体は死んでも、それで終わりではなく、死の向こうに永遠のいのちを見ているのです。人生は肉体の死で無意味になるのではなく、永遠のいのちにつながることで勝利になり、成功になると堅く信じているのです。
もちろん、苦難・災難の当初は苦悩の渦に巻き込まれ、当惑し、動揺し、わめくこともあるでしょう。しかし、聖霊の神の守り・導きで強くせられ、成長させられ、ますます信仰を堅くしていく、そのあげく、別の高みに導かれるのです。その到達点の一つが「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩篇119:71)との告白です。
苦難や災難は誰にも臨みます。思いがけないところから、意外な時に起こるものです。それがないように万全の備えをすることは誰にもできません。大切なことは、それが起きたときに、勇敢に、あるいは粘り強く、場合によっては益になるように乗り越えられるかどうかです。聖霊の神は信じる人を支えてくれます。実際にそれを乗り越えた信徒たちの多くの証しを聞いてください。
また、キリストを信じる者は、いわゆるこの世のしあわせがすべてとは考えません。むしろ、永遠のいのちを獲得することこそ人生最大の目標だと確信しています。この目標観によって、この世の苦難、災難を相対化できるのです。
最後に、旧約聖書のヨブ記は苦難に遭った人の生き方を探求していますから、じっくりと読んでみてください。キリスト信仰は、強く生きられる秘訣です。どうぞ、その秘訣を自分のものにしておいてください。
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